青山真治『サッド・ヴァケイション』日本、2007年 @新宿武蔵野館2

さて、何から話そうか。
何から話そうか、という気にさせるのは必然である。それはこのフィルムのオープニングクレジットでの映像がそれを予告している(その中でキャラクターを捉えたショットが光石研であったのはもはや言葉を待たずとも分かるだろう)。それらを「ほぼ」(「全く」ではないのが肝である)同じアングルから、撮られた、フォーカスの異なるショットのモンタージュ。つまりこのフィルムではどこにフォーカスがあっているかが重要であって、しかしながら同時にどれかひとつのフォーカスを決定的に正しいと確定することは不可能であるということである。
「ピントを合わせる」という慣用句はよく云ったものだ。
もちろん、この「物語」の大枠は畏るべき「母性」ということに異論はない。何をしても赦されてしまうことの畏ろしさ。何をしても赦す人には勝てないよな。やはりキリスト教の赦しというのは最強なのか、親鸞は最強なのか、とか思ったり。罰は罰であれうが故に救いがあるが、赦しには救いがない。たまに凶悪犯が、極刑にしてくださいとか自ら求めることがあるが、あれは赦してくださいということなのだろう。刑期が確定している懲役なぞ、赦しではない。出た後も償いはまっているのだから。とすると、何故浅野忠信は最後、極刑を望んだり、自ら死を選んだりしないのであろうか、この時点で母の赦しに屈服しているのではないだろうか。彼はこのあと、必ず間宮運送に戻ってくるであろう。
…だが、フィルムに注目すると、そういった大いなる母の「物語」に思えるフィルムも必ずしもそうとは云いきれないことは明白であって、そのことこそがこのフィルムが「何から話そうか」と私に言わせる所以となっているのである。『Helpless』と『ユリイカ』の続編であると言う予備知識を敢えて括弧にいれてもなお、浅野忠信宮崎あおいの背負っている物語が別々にあることがこのフィルムからだけでも分かるのは、あの中国人の子供が攫われた夜、ふたりがはじめてツーショットで画面に収まる場面である。二人は二人とも上手を向いて座っている。物語ではそうでなくともこの二人が兄と妹であること告げている。そしてここでのフォーカス。(これは私の勘違い、あるいは願望がそう観させたのかもしれないが)明らかに手前に座っている浅野忠信にはフォーカスはあっていない、では宮崎あおいにあっているのか、一瞬そうかなと思ったのだが、違うのではないか、ピッタリとはあっていないのではないかタッチライトが輪郭を強調しているからそう見えるのではないか。おそらくこのショットでフォーカスは二人の間にある。その「間」こそが『サッド・ヴァケイション』なのではないか。その間にいるのが石田えりなのであろうか。それも実は違うのではないか。冒頭のクレジットの途中、フォーカスが合った映像と合っていない映像とがモンタージュされていた女性は誰か?私はあれが石田えりにみえたのだが、最後まで見ると板谷由夏にもみえるし、それではない「女」なのかもしれないが、ともかく決まったフォーカスでは撮られていない。このフィルムの中で、常にフォーカスがピッタリ決まって撮られていた者はいたのか。初見の今回思い返してみても、分からない思い出せない。中村嘉葎雄か、はたまた高良健吾か、それとも辻香緒里か。それともやはり石田えりには終始フォーカスはあっていたか。とよた真帆には終始あっていたかもしれないと半分下世話にも思ってしまったり。ともかく、誰か終始ピントがあっていたものが居ただろうかという思いが、「何から話そうか」という私の書き出しの、これを見て電車に乗り、コンビニで酒と弁当を買って帰りつき、PCの電源を入れてここに書きこむまでの間に渦巻いていた言葉を誘発していた。ピントが定まっていないからこそ、光石研と斎藤陽一郎がこのフィルムに登場しているのだし、オダギリジョーも迷いこめたのだろう。
さて、何から話そうか。結局その「何」についてほとんど語っていない。しかしそれで今回の文章はそれでいいのだという気に、今なった。