クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』アメリカ、2004年 @神戸国際松竹

陰影を強調した画面が伝えてくるのは、生と死であるが、ひたすら伝わってくるのは生きることへの命である。彼女と彼は生きることとしての死を静かに選択した。かといって画面の影はレクイエムではなく、生きようとするものの意思と生きてきたものが刻み付けた皺や傷跡をしっかりと照らし出すための光である。
モーガン・フリーマンが相棒として出演しているという殊更な事実を挙げないまでも、このフィルムに漂う死と暴力が『許されざる者』を思い起こさせる。ここでのイーストウッドもやはり許されざる者として自らを規定しているように見える。そして、ことが済んだ後は静か去るのみである。しかも当然10年以上のときを経て、イーストウッドはさらに老い、クリント、モーガンに加えての「3人目」にあたる若者は三十路を越えているし女性である。暴力もスポーツとしてのボクシングである。したがってここでは暴力に対する省察は少なく、むしろ生きる技術として、ひたすら生きようとする意思のメタファーとして、ボクシングというスポーツないし生き方が選択されているように思える。ここで問題なのはやはり生きることである。自らの生を生きるために舌を噛み切るという選択しかなくなってもなお生きて死のうとする彼女の意思はたくましい。
自らの命と名付けた彼女に彼が静かに死出のくちづけをかわすシーンの輝きはなんとも言えない。

鈴木清順『オペレッタ狸御殿』日本、2004年 @神戸国際松竹

このフィルムの冒頭が人でも狸でもなく、馬の短いショットから始まっている所から、鈴木清順の空間が始まっているのはいうまでもない。さえぎるものがないセットに幾つかのオブジェを配したいつもながらの舞台に加えて、今回はCGによる背景合成がふんだんに使われている。無論CGはなにかを再現したり、なにかを表象しようとするのではなく、すべてを極めてフラットな状態なきするための装置として、おかしな画質のせいでもはや完全な無の平面でなくなってしまったセットの床と壁よりも遥かに強度を持って侵食してくる。水墨画風の画もただの色と形のレヴェルまで帰される。さらにここに及んでとうとう重力さえも無視し始めた。時空の繋がりを悉く知らない振りをする清順は、重力までも忘れた振りをしてどこでもない無限空間に俳優たちを設置し戸惑いの視線をキャメラに向けさせる。
砂浜で狸姫、竹千代、安土桃山の3者が合間見えるシーンの空間のおかしさは、水平線の上に広がる空が、青空でも、曇り空でもない、一面の均一なるうす曇であることに起因すると思われる。極度の記号化抽象化の前に科白が歌になり、動きがダンスになるのはもはや必定であろう。
ただ、テンポにやや疑問が残るもののやはり並の作品ではない。