クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』アメリカ、2004年 @神戸国際松竹

陰影を強調した画面が伝えてくるのは、生と死であるが、ひたすら伝わってくるのは生きることへの命である。彼女と彼は生きることとしての死を静かに選択した。かといって画面の影はレクイエムではなく、生きようとするものの意思と生きてきたものが刻み付けた皺や傷跡をしっかりと照らし出すための光である。
モーガン・フリーマンが相棒として出演しているという殊更な事実を挙げないまでも、このフィルムに漂う死と暴力が『許されざる者』を思い起こさせる。ここでのイーストウッドもやはり許されざる者として自らを規定しているように見える。そして、ことが済んだ後は静か去るのみである。しかも当然10年以上のときを経て、イーストウッドはさらに老い、クリント、モーガンに加えての「3人目」にあたる若者は三十路を越えているし女性である。暴力もスポーツとしてのボクシングである。したがってここでは暴力に対する省察は少なく、むしろ生きる技術として、ひたすら生きようとする意思のメタファーとして、ボクシングというスポーツないし生き方が選択されているように思える。ここで問題なのはやはり生きることである。自らの生を生きるために舌を噛み切るという選択しかなくなってもなお生きて死のうとする彼女の意思はたくましい。
自らの命と名付けた彼女に彼が静かに死出のくちづけをかわすシーンの輝きはなんとも言えない。