スティーブン・スピルバーグ『宇宙戦争』アメリカ、2005年 @MOVIX六甲

「ソーラー・フレア」だか、なんだかで停電になるのみならず、車や携帯電話も使えなくなってしまっているはずなのに、DVキャメラを構える1人の男がいる。彼もやがてトライポッド(三脚?!)の餌食になってしまうのだが、地面に落ちたDVキャメラの液晶ディスプレイにフィルムは注目する。そこに繰り広げられる光景が見詰められている光景そのものが、この序盤のパニック描写の最も注目すべきところであるのは間違いない。DVキャメラが作動しているという矛盾が、それでもこの描写をせねばならなかったということを物語っている。
突如として「日常に襲いかかる未知なる脅威」に晒された映像は、破壊され大量の土煙を吐き出す建物、それから逃げ惑う人々のパニックを捕らえた、一人称視点の高さからの映像は、誰もが「9.11」を容易に想起するであろう。これは「9.11」以降のリアリティによって支えられている恐怖であることは明白であり、だからこそあのDVキャメラは絶対に登場しなければならないのである。つまり、これらリアリティというのは、あくまでもテレビ・ネット等のメディアを通して同時的、即時的に配信された映像によるリアリティであり、そして現場に居合わせた人間以外、大半の人間が経験したあの事件そのものとは映像であるということを、示しているものに他ならない。
トム・クルーズと子供二人、兄・妹が地下に逃げ込んでいくM・ナイト・シャマランの傑作『サイン』のような中盤の展開は、やはりその後も忠実に『サイン』をなぞっていく。トライポッドが大量に出現して街を襲っていることを知るのはやはりテレビであるし、マシーンだけで姿はなかなか現さない「異星人」がが部屋に忍び込んでくるタイミングや描写、我々は何もせず彼等は微生物にやられてしまってバンザイなど、これは意識しているとしか思えない(※これはスピルバーグ、シャマランどちらをも擁護する発言である)。
序盤の街から車で逃げながら会話するワンショットのシーン。キャメラが左右に自由に動きまわりながら、要所要所でフロントガラスを正面から捉えた構図で一度止まり、やがて通過していく。その素晴らしさを堪能しながら、黒沢清の名前が一瞬浮かんで消えていた。するとその予感はあながち間違っていなくて、しばらくあとで突如この映画自体を切り裂く様に、踏切を通過していく燃盛る列車。この列車を見るなり、嗚呼、こういう光景は『回路』のラストで観たぞ、と思う。
半ば妄想の域を出ない勝手なレファランスを付けたが、これは閑話休題しよう。どうもいろいろな映画的記憶が甦ってきて観ていてワクワクしていたというのが正直な感想のひとつだが、それだけで終わるのもなんであるので。
デカいものをデカいものとして、描くことがこの種の映画の鉄則であり、この点が失敗に終わると目も当てられないフィルムになる。勿論このフィルムでは、墜落した「デカい」ジャンボジェットとトライポッドを同等にデカいものとして描ききっている。これは世界観だとか設定だとかそういうちんけなものではなく、ただ映像としてデカさが伝わってこなければ話にならない。このフィルムによって映し出される物体は『ジュラシック・パーク』の恐竜より遥かにデカい。これは技術の賜物というだけで説明できるのだろうか。
先ほど『サイン』の構造を踏襲していると指摘したが、勿論完全にそうしている訳ではなく、だからこそその差異の部分に目がいく。兄の行動だ。彼も序盤の立ち居振る舞いからホアキン・フェニックス的人物かと思わせたのだが、決定的にそういうキャラクターと決別していく。彼は逃げるのではなく、かといって前線で戦うわけでもなく、「この目で見届ける」ことを選ぶ。この選択こそが映画を見るものの欲望であるわけで、積極的に「よく見える場所」に身を置くことが、このようなタイプの映画の「本筋」であり、若き主人公に相応しい態度である。しかし、この兄にキャメラは一度として(というよりトム・クルーズ以外には一度として)寄り添うことは無い。この時点でこのフィルムはヒーローが敵に立ち向かう物語をきっぱりと放棄した。だから、その後父と娘の2人になり、ティム・ロビンスと共にいた地下室でも決して、生身で降りて来た異星人を襲うことはしない。バットを持ったホアキン・フェニックスはここにはいないのだから。
ラスト生還した父娘は、元妻のもとにたどり着く。兄も生還している。このラストでのトム・クルーズの浮遊感はなんであろうか。このフィルムの主人公であるべきであった人間は兄である。勿論キャメラトム・クルーズから離れることを拒否するので、兄が巡った光景は一切示されない。かわりに元妻に「ありがとう」と言われる始末である。
寄り添うべき相手を敢えて間違えた戦慄すべきフィルム。

原付で映画館へ行く

原付で行ける映画館は今は一個しかない。ま、シネコンだが。昔は隣の区に一個二番館があったのだが、去年閉館…。
起きてからタイムスケジュールをチェックすると、お、うまいこと2つの「戦争」を冠した映画がスムーズに梯子出来るではないか。久しぶりにあの鼻糞が一瞬で溜まるような大橋をフルスロットルで駆け抜け、六甲アイランドへ。
しかし、どちらも「戦争」とタイトルを冠していながら、いささかも戦争ではないというのは、現代における戦争のありようだとかを暗示しているのか。スピールバーグのやつなんぞ、「9.11」以降の戦争という意味では、正しい戦争映画といえるかもしれない。

三池崇史『妖怪大戦争』日本、2005年 @MOVIX六甲

妖怪は戦わない。「少年の成長物語」ではあるものの成長もまた人間の証、成長することによって少年はこの映画的世界からの退場を命じられるだろう。数々の矛盾を映画として纏め上げるのは、かりそめの「人間」の視点による物語ではなく、結局は俳優たちの顔に尽きるのではないだろうか。
特殊メイクをした物を含め、顔が実によく撮れている。結果的に表情となると人間役のものや妖怪でも比較的メイクの薄い者へ注目が行くし、ドラマを進行して行くのは彼等になる。主人公の神木隆之介や(前情報を全く仕入れずに突然観にいったので、この登場自体にびっくりしてしまったのだが)加藤(!)を演じる豊川悦司、特に栗山千明は特筆すべきでいつも顔だけでフィルムを観れるものにしてしまう力がある。
これは俳優の顔だけではなく、例えばウルトラマンジャミラの肌の感覚がそうであったように、作り物であろうが何であろうが実際にキャメラの前にあるものを生々しく捉えきってしまう映画の力の発露が宙に浮くようにフィルムの至るところに観受けられる。菅原文太演じるじいちゃんが天狗山のことを孫である主人公に聞かせるシーンは、かなりのロングショットで十分な時間を取ったテイクである。手前に道路がありガードレールに2人腰掛け、向こうにある大きな天狗山を見る。このショットが、どんな妖怪が出てくるシーンよりも、怖れではなく畏れを催させる。今からこの画面の奥の、向こう側の異界の物語が始まるのだ、と、厳かに宣言している。ここには「妙」な、お祭的なにぎやかさはない。そういった息吹は冒頭のクリーチャーや、麒麟の祭の場面でもそうだ。ここでもまた生身の風景が示される。そしてラストの瓦礫の下で主人公と宮迫が2人会話を交わす場面の「リアル」が三池的猥雑さを滲ませながら、紋切り型の歯も浮くような「オチ」を何とか支えているのである(ドラマてきに観ると、加藤の「豆」の方が遥かに強烈で、あとはエンディングまで綺麗に繋ぐ作業にしか過ぎないだろう)。
三池崇史はナラティブ的にはかなり「奇抜」とされるが、実は常に今そこにある猥雑な世界をぶっきらぼうに写し取ってしまうという資質が最も本質的な部分ではないかと思う。「奇抜さ」はあくまでもその「生のもの」を逆説的に発露させる装置であり、猥雑さを高めるノイズである。だから『ゼブラーマン』などにおいては、敵が完全なCGであった為に、結果最初の銭湯にシマウマという極めて猥雑な三池的シーンが一番素晴らしいということになってしまうし、『DEAD OR ALIVE』のあの「衝撃のクライマックス」においても、一番重要なのは竹内力哀川翔の表情であるのだ。
ところで、劇中水木しげる記念館を始めとする実際のものが闖入してくるし、宮迫が演じるのは「怪」の編集者である。つまりこの映画的世界は水木しげる的なものに対する認知があるという世界であり、その中で「妖怪大戦争」が起こるというのはいわばメタフィクションである。さらにいうならこの世界には「帝都物語」という作品もある世界であり、加藤の存在自体メタ的である。いわばメタ加藤である。つまり幾ら妖怪の実在性、精神性を語ってみても、すべてこれらのフィクションに吸収されてしまうことが既に分かっている世界であることが、予めフィルム内に設定されている。このフィルムにはそれらのバイアスを通過した生々しさがきっちりと捉えられている。どのようなジャンルでも三池作品が可能であるというのはそういうことであろう。
あと、余談だが、この水木ワールドを内包した妖怪世界でも頂点はやはり水木しげるであり、ラストのその登場は『ハウルの動く城』の魔女のような、「顔」だけの存在である。もうここに至っては何をかいわんやである。