三池崇史『妖怪大戦争』日本、2005年 @MOVIX六甲

妖怪は戦わない。「少年の成長物語」ではあるものの成長もまた人間の証、成長することによって少年はこの映画的世界からの退場を命じられるだろう。数々の矛盾を映画として纏め上げるのは、かりそめの「人間」の視点による物語ではなく、結局は俳優たちの顔に尽きるのではないだろうか。
特殊メイクをした物を含め、顔が実によく撮れている。結果的に表情となると人間役のものや妖怪でも比較的メイクの薄い者へ注目が行くし、ドラマを進行して行くのは彼等になる。主人公の神木隆之介や(前情報を全く仕入れずに突然観にいったので、この登場自体にびっくりしてしまったのだが)加藤(!)を演じる豊川悦司、特に栗山千明は特筆すべきでいつも顔だけでフィルムを観れるものにしてしまう力がある。
これは俳優の顔だけではなく、例えばウルトラマンジャミラの肌の感覚がそうであったように、作り物であろうが何であろうが実際にキャメラの前にあるものを生々しく捉えきってしまう映画の力の発露が宙に浮くようにフィルムの至るところに観受けられる。菅原文太演じるじいちゃんが天狗山のことを孫である主人公に聞かせるシーンは、かなりのロングショットで十分な時間を取ったテイクである。手前に道路がありガードレールに2人腰掛け、向こうにある大きな天狗山を見る。このショットが、どんな妖怪が出てくるシーンよりも、怖れではなく畏れを催させる。今からこの画面の奥の、向こう側の異界の物語が始まるのだ、と、厳かに宣言している。ここには「妙」な、お祭的なにぎやかさはない。そういった息吹は冒頭のクリーチャーや、麒麟の祭の場面でもそうだ。ここでもまた生身の風景が示される。そしてラストの瓦礫の下で主人公と宮迫が2人会話を交わす場面の「リアル」が三池的猥雑さを滲ませながら、紋切り型の歯も浮くような「オチ」を何とか支えているのである(ドラマてきに観ると、加藤の「豆」の方が遥かに強烈で、あとはエンディングまで綺麗に繋ぐ作業にしか過ぎないだろう)。
三池崇史はナラティブ的にはかなり「奇抜」とされるが、実は常に今そこにある猥雑な世界をぶっきらぼうに写し取ってしまうという資質が最も本質的な部分ではないかと思う。「奇抜さ」はあくまでもその「生のもの」を逆説的に発露させる装置であり、猥雑さを高めるノイズである。だから『ゼブラーマン』などにおいては、敵が完全なCGであった為に、結果最初の銭湯にシマウマという極めて猥雑な三池的シーンが一番素晴らしいということになってしまうし、『DEAD OR ALIVE』のあの「衝撃のクライマックス」においても、一番重要なのは竹内力哀川翔の表情であるのだ。
ところで、劇中水木しげる記念館を始めとする実際のものが闖入してくるし、宮迫が演じるのは「怪」の編集者である。つまりこの映画的世界は水木しげる的なものに対する認知があるという世界であり、その中で「妖怪大戦争」が起こるというのはいわばメタフィクションである。さらにいうならこの世界には「帝都物語」という作品もある世界であり、加藤の存在自体メタ的である。いわばメタ加藤である。つまり幾ら妖怪の実在性、精神性を語ってみても、すべてこれらのフィクションに吸収されてしまうことが既に分かっている世界であることが、予めフィルム内に設定されている。このフィルムにはそれらのバイアスを通過した生々しさがきっちりと捉えられている。どのようなジャンルでも三池作品が可能であるというのはそういうことであろう。
あと、余談だが、この水木ワールドを内包した妖怪世界でも頂点はやはり水木しげるであり、ラストのその登場は『ハウルの動く城』の魔女のような、「顔」だけの存在である。もうここに至っては何をかいわんやである。