長崎、12歳(昨日の続き)

昨日の「コメント」にありましたが。
いや、もちろん「そういうシステム」ではないことは了解しています。
でも、そうかと思えるような風潮が今回の事件だけではなく、あるように見うけられます。
建前というか基本は抑止力として機能させるためのものであろうと思います。しかし確実に、特に凶悪犯罪の場合、フーコーの言うような機能、「狂人を隔離」するような機能もあることは確かだとおもいます。というのは、利害など思惑があって法を犯すものの場合それは抑止力となり得ましょうが、問題になるようなケースの場合、罰があることを了解した上で、ときにはむしろそれを望んで法を犯しているからです。そう言った犯罪者にとって法はどのように機能するのだろうか?「責任能力」無しと認定された場合は精神的な治療を受けることを強制されるわけですが、そう言う場合も含めて「狂人」をわれわれの社会から排除したいという社会的な要請があるというのが一番説得力があるのではないでしょうか。ともかく、罰を与えるのは最終的な目的ではないはずですね。
飲酒運転の罰則が強くなったのはおおむね成功だそうで、微罪はかなり減ったそうです。が、凶悪なものの数はあまり変わっていないようです。
どちらにしても法の抑止力としての機能にはある程度の限界があるようです。
今の世間的な関心は「これから起ころうとしている犯罪」よりも「すでに起きた犯罪」にどう対処するかの方にあるようですが、それでは同じ事が続くように思います。そして前者は法の問題ではないとも思います。
量刑に被害者(遺族)の気持ちを反映させなければならないか?という問題ですが、おそらくこれからもより反映されるようになってゆくでしょう。「悲惨な犯罪」はこれからも大々的に報道され、遺族の悲痛な叫びはどんどん増していくでしょうから。
そう言えば星新一の短編で裁判がコンピューターにより高速化された近未来、判決が早く出るため被害者や大衆の心象が強く残っているため、刑は重くなっている…みたいなのがありましたね。
民主主義の世の中なので、有権者が刑を重くすべきだと思う風潮が強くなれば、そうなるのは当然でしょう。郡体としてのヒトは普遍的な善や真理を求めてはいないと思います。