塚本晋也『六月の蛇』2002年・日本@梅田ガーデンシネマ

いうまでもなく、これまでの塚本晋也作品のどれもからエロティシズムを感じる。だから、塚本晋也がエロをやると聴いて、それはまったく自然なことだと思ったし、監督自身もそれほど特別な(今までとは全然違う)ことをやろうという気はなかったと思う。
塚本晋也は今の日本映画の監督なのかでも稀有な、ワンカット観ただけで、「塚本作品」と分かるような、テクニックの持ち主である。最初のヌード撮影のシーンからはやくも「これは僕の作品です!」という指紋が、もはや観客に対してこの映画がアドバンテージを取ったことを宣言する。
塚本晋也の編集はうまい。それはただ映像を編集するのみでなく、音も作り上げられている。音と光の小刻みなジャブが塚本晋也の握中へ我々を誘う。
塚本晋也の映画は、『東京フィスト』やこの『六月の蛇』のような作品でさえも、「現実的な」映画ではない。「いまここ」で起きていることを写し取っていくような種類の映画ではない、徹底して映像も音も構築されたものである。にもかかわらず徹底的に具体的かつ脅迫的な視覚情報が揺さぶりをかけてくる。「いまここ」でない真実(≠現実)。だから実は、常に塚本晋也の映画は「リアル」であるが極めて観念的な、観るものの手によって脳内補完される映画である。
全然この作品について語ってなかった。閑話休題
塚本晋也の作品すべてにみなぎっているほかの要素、暴力とタナトスタナトスはあくまでも「予感」「無意識的」であって、実際これまで具体的に「死」が示されたことはない。この作品においてそれは初めて具体的な「未来」つまり「現在」の問題としてその姿をあらわす。塚本晋也黒沢あすか両者が癌に蝕まれているという事実だ。ここまではっきりと「死」が明示された作品ははじめてであろう。「性と死」と言うキーワードを出すまでもなく、それによって二人の性衝動は加速されている。ダンナの母親の死の挿話はそのことを先見的、潜在的に示している。
黒沢あすかの演じた役は、これまでの塚本作品の正統な後継者である。内なる欲望が外なる敵によって、目覚めさせられる。これまで、それは男であり、多分に「暴力」を含んだ、それが主である「性」であったが、女が主人公になった今、それはより「性」に純化された。男はエクスタシーで、膝が脆くなったりすることは少ない。ダンナはエクスタシーに吼える黒沢あすかを見ながら自慰する場面において、絶頂の瞬間まで、起立したままである。男は常に立っていいなければならないのだ。このシーンは悲しい。
前半はほとんど声=音だけの存在である塚本晋也。癌による痛みにもだえている声は、電話口だとエクスタシーにも聞こえる。徹底して音声のみで存在で、違う次元の存在である場所にいる。それは恐ろしい。そして、その姿をいよいよあらわしたとき、やはりそれは「暴力」と『鉄男』の「やつ」のように屈折した「性」である。
塚本晋也は一貫している。
塚本晋也の映像は常に「死」と「暴力」そして「性」を帯び、極めて官能的である。
これはおそらく男女によって見方が違う映画だろう。