アルフレッド・ヒッチコック『知りすぎていた男』1956年/アメリカ

冒頭のクレジットのバックでずっとオーケストラ、しかもその一部が丁寧に撮られている、クレジットが終わるとき、徐々にズームでよっていったその先はただ一度鳴らすためだけに用意しているシンバル。この丁寧なオープニングクレジットで、もう私はメロメロになった。
この映画も間違いなく、そして上質のヒッチコック作品なので「マクガフィン」について。それは、ヒッチコック作品の中でも最も素晴らしいマクガフィンであろう。それはモノではなく、「音」、「音楽」である。
クライマックスの暗殺が起きようとしているコンサートのシーン。これほどまでに、物語映画として観客を「音楽」に集中させることが出来る映画はない。音楽そのものを媒体に暗殺者、被暗殺者、真相を知る婦人、そこに駆けつけるその夫、観客、警察、オーケストラのメンバー、そしてそのシンバル奏者が渾然一体となっている。音楽がすべてのショットを束ね、時間的、空間的にそれらのショットを一つの交響映像にしている。
さらにその後のもう一つのクライマックス。母親の歌声が誘拐されている息子を引き出す「歌声」。物体ではない音声は、光よりもときとして遠くに届く。「目には見えぬが声は聞こえる」という感覚はヒッチコックは自覚的に映画の中に取り込んでいると思う。この作品だけではなくて。
この映画はどんなミュージカル映画よりも音楽と映画が幸福な関係にある映画だ。