ジョン・カーペンター『ザ・フォッグ』1979年/アメリカ

水や煙は、まさに映画誕生の瞬間から映画に愛されてきたモチーフである。そして、この作品のタイトルになっているフォッグ(=霧)もそれらと同列の存在である。絶えず変化しつつ、いろいろな様相が観るものによって生み出されるこれらの運動の予測不可能なモチーフは、よほど下手糞に撮影しない限り、美しい。
ジョン・カーペンターは我々が観たいものを一番観たいときに少しだけ、はっきりと観せてくれる。隠すことが美徳だとは考えていないようだが、しかし、これでもかというくらい観せ付けることも、上品なことだとは思っていないようだ。それは数々の彼のフィルモグラフィーにおけるラストシーンのなんとも言えない、いわば半勃起の状態で投げ出されるような、彼の作品への生理的欲求になる。カーペンター作品のラストの魅力はそこではないだろうか。いわば中毒になる。
ダグラス・サークのようにこの作品でも演技、演出しているのは影である。序盤から最も影が演技していた教会がこの物語のキーになり、神父の大きな影が、彼の祖父の業の深さを暗示していたのは間違いない。光る霧とうごめく影。モノクロ映画かと思ってしまうくらい陰影による演出は徹底されている。この作品において「幽霊」は光とともに現れるし、常に人間はその強い光による影の中で逃げ惑う。
カーペンターの作品は「残虐なシーン」が多い。と一般的な了解もあるかと思うが、それらのシーンがメインで、そればかりに注目させるようなつくりには決してなっていない。それらばかりに注目する人間はカーペンター作品を好きだとは言ってはならないし、そもそもカーペンターの作品など観てはいないのだ。