実相寺昭雄『宵闇せまれば』1969年/日本・プロ断層 をビデオで

45分ほどの小さな映画。脚本は大島渚なので、ダイアローグとかはそういうテイスト満載である。この時代の映画から共通して感じられるような焦燥感がこのフィルムにもある。
日常の中にあるふとした風景に、非日常としてゲームと生死の選択が割り込んでくる。参加者の恣意によって割り込んできたこの闖入者は、呼びこんだものにも制御しきれない獣か、それとも別の者によって、完全に制御されている悪魔か。それはわからないが、このフィルム自体が、こうした状況そのものを相対化するゲームのようでもある。
結局のところこの物語で示されてしまったことは、生きていることすらもゲームであり、あるものはそれを達観し、あるものは擬似的なスリルに飲み込まれ、感情を乱し、マスターベーション的自己満足の世界にふける。ラストシーンの女のうれし涙が、なんとも空しく哀しいことか。空しい風景が広がるのみ。結局のところ最初のシーンでの女の台詞、「宵闇がせまると、この窓から見える風景が、ここから見える家々が、マッチ箱のようにみえて、人間が生きていることが何処か頼りなくみえる。」ということに帰してしまう。
実相寺の演出に目を向けてみると、これはまさに音響と、湿気の映画で、漏れて来るガスの音と湿り気が、画面の緊張感を支配する。水道の水が流しにあたる音、コインで窓ガラスをこする音、まどろむ前の一瞬、体は疲れているのに感覚器官が異常に研ぎ澄まされている感じである。そしてなによりも、このフィルムの全てを表している、暗示している、ファーストカット。あの明らかに書割の、窓の外に広がる空。その下にはおそらく本当に「マッチ箱のような」家々が並んでいるに違いない。東宝怪獣映画のような家が。
実相寺のその後の作品にもはっきりと観て取ることの出来る、湿り気、湿ったモノクロの画面はデビュー作であるこの作品からもしっかりと滲み出している。