アレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』2002年/ロシア・ドイツ・日本@三宮アサヒシネマ

原題"Russian Ark"。
「一般的」には96分ワンカットによる長廻し撮影による映画、といううたい文句になっているが、まさにその通りで極論すればそれだけの作品かもしれない。
この手の作品ですぐ念頭に浮かぶのはヒッチコックの『ロープ』(1948年)であろう。実際、『ロープ』はフィルムの長さの限界のため、フィルムが足りなくなると、人物の背中をクロースアップで捉え、その暗闇を利用してカットをつなぐというサーカスのようなことをやってのけた。これはヒッチコックを初めとする(僭越ながら私も)映画監督の欲望の一つである。全篇をワンカットで撮影する。
人間の集中力には限界があって、とても90分以上の時間を息を止めて観ることは出来ない(私も途中ペルシアの人間が謁見に来たあたりでまどろんでしまった。)。ヒッチコックのそれは無論サスペンスによって、その緊張感の媒体としてある程度機能していた。この作品の場合この長廻しを支えるのはロシアの歴史であり、ソクーロフ自身である。だが、この作品の視点は非人称的なもので、大半の時間傍らにいる黒服の男といるときはまだましであるが、あらかじめ決められたルートをキャメラが動きそのカメラワークには職業的なキャメラクルーの意思、自らの存在を透明にしようという意思が感じられ、それがかえって、この画面がソクーロフのものではなく技術スタッフのものであること、キャメラで撮影されたものであることを再確認させられる。
この作品はフィルムではなくハイビジョンのDVキャメラで撮影されている。したがって、フィルムの長さの限界のような制約は無く、いつまでもダラダラと撮影することが可能なわけだが、私が観た場所は古いタイプの映画館であり、フィルムにキネコされたものを上映する。となると、全篇を一貫のリールに収めることは出来ないので、当然他のフィルムでつながれた数シーンあり数カットある映画と同じように途中でフィルムが入れ替わり、その継目で明度と彩度が変わるのがわかる。かと言ってこの作品の試みが無に帰するわけではないが。
この作品に流れる時間感覚は96分では無論無かろう。それは『永遠と一日』(テオ・アンゲロプロス 1998年)のように時間の流れを穏やかにしたものとは違う。かといって、数百年の歴史「96分」という時計で計れる時間に凝縮させたともいえない。そこに流れる時間は現実とは完全に切り離され、宙ぶらりんになった、浮かばれない亡霊のような時間。長い夢から覚めた後、思い出してみると一瞬であったかのように感じる奇妙な時間感覚だ。この作品の96分という尺は、既存の時間単位では計れないものだろう。
もちろん個人的な無知もあるが、ロシア史に全体を支えさせるのには無理があったのではないかと思う。ワンカットの中で時間、歴史を飛び越える試みはアンゲロプロスのそれの持つ詩情、スペクタクルには到底及ばなく、そこには人間の存在が感じられない。主人公、主観、モノローグの一人称であるソクーロフ自身さえそこかしこに浮かんでいる亡霊の一人にしか見えない。
それでも、ラストの舞踏会終了後に大勢の人間がホールを通って外へ出ていく画面は、モッブシーンのただただ単純な迫力に息を呑み、その後に連なる湯気の出ている水面には感動させられる。この作品で唯一自然が映っているからであろうか。