黒沢清『アカルイミライ』2003年/日本 25:13

をビデオで。
現在23歳のの私はいったいこの映画に対してどう言う反応を示せばいいのだろうか?アカルイミライ。カタカナで記されたこのタイトル。つまり括弧のついた「明るい未来」という意味だろう。必ずしも日常的に口にするような意味とは違う。そのタイトルがラスト、白いシャツの下にゲバラの顔がプリントされたTシャツを着た少年達が通りを闊歩する画面に突如、この映画の終わりを告げるように出る。「未来」が「明るい」のは、有田の父親(藤竜也)でも、仁村(オダギリジョー)でもなく彼ら少年達だという単純な話だろうか?その彼らが闊歩する映像はやがて、一瞬光ったかと思うと、白くアイリス・アウトしていき、彼らをを残して白い画面に変わる。これをよくみると、薄くアイリスがぼやけているあたり、少年達の後ろに徐々についてきている人がいるのがわかる。これを黒沢清は隠したのか?それともギリギリでみえるようにわざとこうしているのか?おそらく後者だろう。彼らはどこに向かって歩いているのか分からない。周りは白く光っているのみだし、彼ら自身明日のことも分からないであろう。にもかかわらず、いやだからこそ、「アカルイミライ」なのである。
唐突に現れる彼ら白いシャツにゲバラの少年達彼らが何かのメタファーなのか?それとも彼らは彼らとしてただ画面に存在しているのか。このビデオと一緒に借りてきたのがアンゲロプロスの作品という偶然を意識しているわけではないが、この白い少年達は、アンゲロプロス作品によく出てくる黄色い合羽に似ていると思った。物語の外部にいてそれに直接関係しようとはしないし、かといってそれを見ている我々のメタファーでもない。アンゲロプロスは黄色い合羽たちを天使のようなものだといっていたが、やはり彼らもそういう存在なのではないか。無垢、残酷な純粋さ。やはり彼らのミライは無根拠にただただアカルイ。
冒頭の仁村の顔をあおりで捉えているショット、この画面でも、下に見えるか見えないかの位置で、彼が拳銃を構えているのが見える。このショットは後ほど妹とのその恋人とともにゲームセンターに行くシーンで、ただのゲームであることが分かる。この最初のショットにより「キレ」るの仁村であり、何かかことを起こすのは彼だと思わせる(前情報でそうではないことは私は知ってしまっているが)。かくして最初のショットには二重の意味で裏切られることになる。そして仁村自身も有田(浅野忠信)に裏切られるというか、先回りされる。
この物語で主人公の2人、有田とと仁村以外の外部者、異なる世代の代表として登場するのは有田の父親ではなく、2人が勤めるおしぼり工場の社長であった。ここでは2人(2人の世代)と社長のディスコミュニケーションが強調される。ディスコミュニケーションというか、理解拒否である。社長の家庭でもディスコミュニケーションが進行していて、そのはけ口を若い2人に求めその先に家族とのコミュニケーションの復活を求めたのだろう。だが、2人は拒否した。犯されると思ったのだろう。2人ともシンクロニシティのように殺意を持ち実行しようとした。有田はシンクロニシティが成立していると思い、仁村に「待て」のサインを出す。しかし、仁村は気付かない、ここでもコミュニケーションがうまくいかなかったのだ。だからその後のクラゲの飼育についても、その意図がつかめない。それをつかめなく、面会で有田は絶好を申し渡し、そのまま死刑は執行されてしまう。「行け」のサインを残して。このくだりで、もはやこの作品が示そうとしているのは単なる世代間の相互不理解とかでは無いことが分かる。
一方、後で登場した有田の父親は決して世代を代表するような性格を帯びていない。しかしながらそれでも、コミュニケーションが出来ない。これはもはや世代間の問題では無くなった。二人は勝手にクラゲを有田の象徴にしてしまう。逃げ出したクラゲが繁殖し、川を埋め尽くし、その被害が報道されるころ、ようやく有田が死に際に出したサイン「行け」を仁村は理解する。したつもりになる。俺に構わず「行け」。俺のことは忘れろ。と。かたや、息子の象徴だと未だ思いつづけている父親は、大量発生するクラゲを単純に歓び、東京を出ようとしているクラゲ達に戻れという。やがて、彼はクラゲにさされてしまう。有田はクラゲに象徴されてしまったのではなく、彼は彼として、父親のリサイクルショップに存在していたのに、残された2人の傍らにいたのに、それに気付いてはいなかったのだ。クラゲにさされようやく気付いた、「ここからは何も見えない」事がわかった仁村は出ていった。かたやもはや残された未来の少ない父親は仁村も出ていった工場で息子の幻にここにいても良いよというのだった。
なにかあらすじ説明のようなことをしてしまったが、自分自身こうして今整理していたのだ。
しかし思うに、結局誰も他人の思いを「理解」することなんて事実上不可能なわけで、最後までディスコミュニケーションの可能性は否定できない。その上でもミライはアカルイのか?とにかく明日も明後日も来年も再来年も、帰納法的な意味で、おそらくかなり高い可能性で私達は生きているだろう。ミライは来るだろう。しかしそれは、少なくとも私にとってはそのミライはアカルすぎて目が眩みよく見えない。
書いているうちに細部が思い出され、自分でも混乱してくる。これはもう一度見ないとよく分からない。ただこの作品を単純に素晴らしかったと言ってしまえない何かがある。作品として、切り離されて世界に独立して存在しているいるものとは思えない。何か自分の中に侵食してきて、この作品に対する私の持っているよくわからなさ、釈然としないなにかとは、実は私自身の問題であって、自分自身のことがよくわからなくて、釈然としないのだろうなと思う。好き嫌いでは語れない個人的な荷物になってしまったようだ。
またしてもグダグダな文章。しばらくたってからもう一度見なおさなければ。