テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』1988年/ギリシア・フランス

をビデオで。
アンゲロプロスの作品を観るにあたって、資格とか条件とかは無いといってしまっても良いとは思うのだが、かといって、ギリシアバルカン半島の近・現代史を深く知らない自分に何の羞恥心も抱かなくても良いということは決して無いであろう。実際私も、以前『旅芸人の記録』に対して無条件降伏した際、同時に私がいかにものを知らないか、全ての下にある歴史、重き歴史に対して無意識であったかを痛感し、高校のとき世界史の授業をとっていなかったことを激しく後悔しつつ、本屋でバルカン史の本を漁ったものだ。(クストリッツァの『アンダーグラウンド』を観たときも似たようなことがあった)
結局、きちんと勉強しないまま日々ダラダラと過ごしてしまう自分にこうして、様々な作品を観るたびに気づかされるという体たらくぶりである。にわか知識しか持ち合わせていなく、なにも知らないよりもかえってたちが悪いのではなかろうか。
そして、久しぶりにアンゲロプロス作品を観て、やはり素直に問答無用で素晴らしいシーンの応酬。例えば

  • 姉弟が雪の積もった道を歩いていると、向こうの建物から泣きながら花嫁が出てき、花婿が追いかけてきてなだめながら戻っていく、すると奥からトラクターが瀕死の馬を引きずってきて、姉弟の前で止まり、馬はまさに虫の息で震えていて、弟はそれを見て泣き出し、姉は「死ぬわ」という、やがて馬の息も絶え、姉は「死んだわ」といっている背後では、先ほどの花嫁花婿を先頭に楽しそうな音楽を掻き鳴らしながら行進して行く。
  • 旅芸人の若い男と姉弟がホテルに泊まった翌朝、若い男が海を見ていると、そこに像の一部と思われる大きな手が浮かんでいる。やがてヘリコプターがやってきてそれを吊り下げ遥かなたに持ち去る。
  • 軍の行進が通を行く、やがてその隊列はとまり、整列し、ラッパが鳴り響くと前にある旗が下りていく、その脇から弟が走ってきて、画面手前にいる姉と若い男と再開する、弟はいう「買った、働いた」
  • 毎度おなじみの、黄色い雨合羽
  • 海辺で芝居の稽古をする旅芸人達

もう上げ出すとあいかわらずきりが無くて、まさに豊だとしか言いようの無いシーンの数々。しかしただ素晴らしいだけではなく、多くのものがなにかを象徴しているに違いないとは思うのだが、それが何を象徴しているのかが私にはわからない。それは短に私の知識(というよりもアンゲロプロスや彼らギリシア人の持つリアリティの共有)が足りないだけなのか、それとも短に私の感受性が鈍いだけなのか。ただ私はその豊かな表現の裏に潜むであろう重く、悲しい歴史にただ意味もわからずに戦慄することしか出来ないのであろう。今のところは。これを訳している池澤夏樹氏などとは感動の質は遥に違うのだろうか、遥に貧しく原初的なのだろうか。私はそこからにじみ出る悲しみをただ雰囲気で感じているだけなのだろうか。形式と内容の形式だけを抽象して楽しんでいるだけなのだろうか。
この作品では子供二人のあてど無いドイツとの国境への旅というメインテーマをひたすら時間軸に沿って追っている。他の作品でみられるワンカット内での時間の跳躍は無く、ひたすら二人のたびを追う。が、どこにいるのかわからない国境、ドイツが亡霊のように遥かなたに浮かんではいる(弟は夢の中では手が届くほど近いと言う)のだが、地理的感覚が欠如している、今彼らがどこにいるのか全くわからない。ちゃんとドイツに向かって進んでいるのかもわからない。若者の台詞「急いでいるのに時間がある」まさにそういう目的があるのにふらふらとさまよっている2人の姿に見ている私も地理的感覚が無くなっていき、2人がどこに向かっているのかわからなくなる。このたびを通して2人はいささかも成長することも無い。それぞれ成長を示すようなエピソード(姉のレイプ、初恋、弟の労働)が盛り込まれるものの、それはつうか儀礼でもなく、ただそういうことがあったことを淡々と画面は示し、その後も彼らの描写にも変化は認められない。最初から姉は強く寡黙な人物として、弟は賢くやさしく、勇敢な人物として、つまり神話的の登場人物のように描かれているのだ。そして物語の最後彼らが向かっていた場所、この作品の向かっていたベクトルが明らかになる。霧の中の風景、それは黄泉の風景である。2人は地図で表せるような土地には決して向かっていなかった。もともと最初からいるか「いないかもわからない父親」、概念的な実体の存在が未確認なものを追っていたのだ。
似たようなロケーションで、馬の死、なにも映っていない映画のフィルム(もしかするトラストシーンのフィルムそのものかもしれない)を拾うという出来事が起こっているのは決して偶然ではないと思う。最初私はフィルムを拾うシーンで、馬の亡骸の一部例えばたてがみの一部などを拾ったのかと思ったほどだ。だから、街中の路上のシーンは全てラストシーンにつながっているのかもしれない。これは所謂「ロードムービー」にカテゴライズされるのかもしれないが、そういう意味で明らかに他のもの(例えばヴェンダースの『パリ・テキサス』)とは趣が違う。旅の目的地も、そのものの目的もこの世界には無いものだったのだ。
アンゲロプロスの作品の中で乗り物、とりわけ鉄道はただの交通手段ではなく、登場人物と我々を全く未知の場所につれていく手段となっていると思う(ときには時間さえも超える)。鉄道やバス、つまり地面を走る乗り物、複数の人を一気に運べるもの(だから『永遠と一日』の乗用車は少し種類が違う)は常にその先にある国境を意識しつつ、しかしながら、途中下車を強いられ、未知の場所へと放り出される。対してヘリコプターなどは全く道の場所から突如として現れ、そのまま去っていく。船も同様であろう。より何らかの象徴としての機能が高いと思う。またこの作品ではじめてアンゲロプロス作品にバイクが登場していたのだが、これはどうだろう、私にはあくまでも足の延長にみえる。実際、主人公2人がバイクによってかなりの長距離を移動することは無い。海に行く場面を除いては、一つのカットの中で右往左往しているのみである。アンゲロプロスの乗り物の使い方については一考する価値があると思った。
アンゲロプロスの新作『The Weeping Meadow』の公開を待ちわびている。
http://wwwde.kodak.com/JP/ja/motion/newsletters/inCamera/jan2003/weeping.shtml