押井守『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』1995年/日本 をビデオで

イノセンス』の特報を観た後、居ても立ってもいられなくなり、とりあえずオープニングを観ようと思ったのだが、最後まで熱中してみてしまった。
久しぶりに観なおしてみて、先ず思うこと、気付くことは、この物語は実に単純なラブストーリーだということである。つまり、人形遣いの素子への「片思い」とその成就を軸として、それにバトーの感情も加わり、分かりやすいほどの三角関係が成り立っている。(バトーの恋愛感情が一番わかりやすく描写されていて、バトーの劇中での行動は全て「素子への思い」で説明することも可能である)人形遣いはコピーではない自分の分身=子孫を設けたいという感情を持つにり、融合というかたちでそれを果たす。それは人間、その他の生命を持つものにとってそれは性欲という本能となって現れていて、恋愛感情というのはその一端であるという説明がある(ここでは「恋愛」という概念そのものが「西洋」のロマン主義以降の産物であるということ、つまりそれ以前、日本においては「西洋文化」が入ってくる以前には厳密に言うと「恋愛」というものは存在しなかったということはひとまず置いておく)。
人形遣いの行動の目的は「個性」や「多様性」のない、コピーを生産しつづけることを拒み、他者と融合することによって「多様性」を獲得するということだが、そのためには他者が必要である。ここで第1に人形遣いが「他者」を認識しているということ、よって「自己」を認識している、自意識があるということがいえる。そして人形遣いは素子に「エン」(原作に倣ってカタカナ表記)を認め、融合の相手に選ぶ。この時点で他者なら誰でも良いということではなくなる。他の誰でもなく、素子でしか駄目だということになる。その瞬間、人形遣いの目的と手段――つまり多様性のある分身を残すこと、そのために素子と融合すること、の優先順位はどうなったか、人形遣いはかなり「危険」な行為に身をさらしながらも素子に近づく。融合のそのときはいつ「殺される」とも知れない状況である(無論そのことは自覚していただろう)。さらにそこに至る会話は自分の声はバトーに聞かせていない(それによってバトーは「嫉妬」する)。人形遣いの素子に対するここまでのこだわり様は、人間の場合「恋愛感情」といって良いのではないか、人形遣いは恋愛感情、少なくともそのシミュレーションは成しているといえると思う。論理的には「破局をまぬがれる」為の行為であろうが、それだけで説明できるのだろうか、人間もそのことを瞬間的には自覚していないだけなのではなかろうか。そして、ここからが「オリジナル」な部分で、融合後の者は「人形遣いと呼ばれたプログラム」でも「少佐と呼ばれた女」でもない。それに対してバトーは戸惑う。もはや素子と人形遣いが不可分に融合された者から素子の部分だけを抽出して認識することは不可能になった。それでもバトーはその者を保護し「ここにずっと居てもいい」とさえ言う。融合とその後の人格という点については諸星大二郎の短編『生物都市』などとともに考えるのも良いだろう。もちろん『エヴァ』の「人類補完計画」についても同様だろう。今作ではそれを非常に個人的なレベル、情報を講義に捉えた上で、その情報レベルでそれを成している。
そう考えると、観る前から結論もなにも出せな憶測にしか過ぎないが『イノセンス』の主人公は残されたバトーであり、そのテーマが「愛」だというのは意外どころか非常にスマートで、順当な続編であると思う。
これは演出上の妥協点、観客に観やすくするための処置だと思うのだが「声」の使い方は気になる人形遣いが素子の義体に侵入したときその声は以前人形遣いのままである。おそらく発声のシステムはもはや声帯に依っていないと思うのだが、この作品では「声」が登場人物を同定させるために使われていることは間違いあるまい。声紋があるということだろうが、そんなものはコピー可能なのではないだろうか、となるとやはり生来の声帯をつかって発声していて、その使用法に個人差があるということことだろうか。そしてラスト、融合後の者は素子の声を使っている。これはバトーへの「思いやり」だろうか。
さて、この『GHOST IN THE SHELL〜』には登場人物が食事をする場面が一度も出てこない。アルコールを採っているシーンがひとつあるが、それもかなり無機質で、すぐに代謝を上げれば分解できるといった味気ないものである。それがどうしたと思われるかもしれないが、押井作品を観る上で「食」というのは重要なキーワードであると思う。押井守の作品をして、よく「禁欲的」と言うキーワードで語られ、押井自身もイングマール・ベルイマンなどを好きな作家として挙げているが、それは性だけが対象ではないと思う。物を食べるという行為は私は性行為に最も近い人間の行為のひとつであると思う。粘膜に異物、自分ではないものを接触させやがて体内に採りこむという作業である。食事中に食べ物や口元を以上に隠す女子が昔クラスに必ず一人二人は居たものだが、おそらく彼女はそのことに人一倍自覚的だったのではないだろうか、それに対して排泄行為は普通人には見せない。愛を交わす二人が口と口を合わせ粘膜を接触させるのも、おそらくそれとは無関係ではあるまい。この作品の場合、義体だから。と片付けられるかもしれないが。他の作品についてはチェックしなおさないと断定は出来ないが、『パトレイバー』シリーズなどではどうだったろうか…。『うる星やつら2 ビューテイフル・ドリーマー』ではコンビニの描写が印象に残っているが、そこでの食品の描写はどうだったろうか、あたるの家で大量に作られる食事はどうだったろうか。『Avalon』での食べ物の描写は非常に「まずそう」にみえて、ヤン・シュヴァンクマイエルと似ているな*1と思った。押井作品における「食」の扱いは注目する価値がありそうだ。
もう一度観なおしてみよう。『イノセンス』公開まで、押井祭でもするとしよう。

*1:ヤンは「食」について凄く自覚的で「FOOD」という作品を撮っているほど。幼い頃虚弱児で、食べることが大嫌いだったとインタビューでいっていた。