『台風クラブ』の追記

この作品の中で、中学生たちが下着姿になるシーンが何度もあり、さらにオープニング(このオープニングからまいってしまう。ダンスのシーンは悉く素晴らしい。「楽しい」シーンなのだがどこか必死さが伝わってくる。良く言われる監督の恐ろしい演出に対する必死さもあろうが、観ている最中、画面としては馬鹿馬鹿しいことを必死に一生懸命になっている。ある種実相寺昭雄の『宵闇せまれば』のような状況、そういう瞬間を生き、やがて分別がつき馬鹿なことを馬鹿なことと切り捨ててしまう「大人」になる前の生き方のリアリティが自分の10年前と照らし合わせても大いに実感できる。馬鹿なことを馬鹿なこととして必死に出来るのが面白さである。)から水着姿なのであるが(今だと完全に「ある種の人間」が異常に欲情するようなシーンなのだろうが)、このエロティックさと、よく全然セクシーじゃないアイドルなどを形容するときに使われるような意味での健康的さとの入り混じっている中学生の女子たちの描写が非常に面白い。相米自身や、この映画から彼女らをあからさまな性の対象として捉えているようには、たとえ閉じ込められた学校で塩酸を背中に掛けられた少女を追う少年のシーンにでも自分の感情が未だ未整理、言語化以前の状態でまさに「どうすりゃいいんだよ」という状態で、あまり見えなく(工藤由貴が東京に家でしたときに声を掛けられた尾身としのりは別で、そのふしがあるが、結局未遂に終わる)。それよりも発展途上の目覚めの前のロリコンとかではなく中学生が中学生に抱くような吐き気が入り混じるような性が立ち現れている。レズのカップルがいることに関してもそうで未だ友情なのか何なのかも分からない。家出についても理由がわからない。自分のしていることが何なのかきちんと理解していない。説明できない。つまりまだそれを語る言葉を持たない。
全てが無秩序で未整理である。まだ世界のいろいろな事象が差異化される以前、もしくは差異化をしていく途上にある。そのような世界。それをそれとしてただただみせようとする映画。そのためにはやはりあの長廻しが必要である。
無茶苦茶な映画であるが、実際中学生というのは無茶苦茶なのである。