相米慎二『台風クラブ』1985年/日本 をビデオで

月並みな言い方であることを覚悟して言えば、この映画自体がまさしく台風である。台風がくるというワクワク感をこの映画自体が孕んでいて、破壊や死でさえも、それは非日常の「ワクワクする」なにかである。
この映画に出てくる人物、中学生たちのみならず教師やその他の人間たちに至る全てがなにか熱病に晒されているようだ。決して「リアル」には描かれてはいないが、確かに私が中学生のときもこうだった。
この映画を観ていて、先ず連想したのはゴダールで、音の使い方、自然現象の音をかくも見事に演出して、登場人物の一人にまでも高めていて、『決別』の雷鳴をも連想させる風雨の音だ。もちろん、かといってそれが人格を主張しているわけではなく、ただそれとしてせまってくる。そして、環境音と人物の声とのバランスの操作法もそれを思わせ、実に見事に作品の空気を作り上げている。
雨音を聞いてワクワクする感じは久しぶりに経験した。
そういう視点で観ると中学生たちもそうで、ただその年齢の少年少女達として画面に立ち現れる。彼らが存在し、生き、死んでいく存在する理由も、その行動の理由も、台風がくる理由も、ここにはない。
撮影が見事なのはもう言うまでもないことであるが、例えば雨が一時上がり、表に出て歌い踊りながらふざけていると、一瞬体育館の電気が点滅し、誰か人が死んだと言い、すると再び激しい雨が振り出すカット。やがて、雨音が彼らの声に勝り、画面も雨で満たされて行く。
長廻し、シークェンスショットといえば現在ではアンゲロプロス、古くは溝口健二を想起するが、彼らの技術的なものとは明らかにそのベクトルが違う。キャメラはあたかも次に何が起きるかを知らないように、カットをかけるとその次の瞬間に大切な何かが目の前に現れるのではないかという畏れを抱いているのかのように息を詰めて見つめる。そのキャメラに見つめられることによって俳優も絶えず成長、変化しているかのようだ。この延長線上にあるのは、私は諏訪敦彦であると思う。カットを「割らない」のでも、「割れない」のでもなく、「割ってはいけない」のいである。
音楽の使い方のセンスが非常ににくくて、バービーボーイズなど本体私は好きではないのだが、なんと良い曲なのだろうと思ってしまう。これからはバービーボーイズをどこかで耳にするたびにこの映画を思い出すことになるだろう。学校から電話をかけたときに教師はカラオケをしているのだが(「何故か」恋人の母親と叔父とも仲良くなっている)、電話に出た後しばらくオケだけになるところ(そこですかさず叔父の立派な彫り物が一瞬映る)、の音の具合が非常に絶妙で楽しい、そして、一方の学校側に画面が返されその音が途切れるという流れが素晴らしい。
作品全体の空気が森田芳光の『家族ゲーム』を思わせた。ちょうど時代も同じであるし、この時代の雰囲気がこの映画を作らせたといえるのだろうか。
傑作。