たまには私的なことも

Know yourself!

今日は「私の落ちつける場所」にて、後輩が今作っているドキュメンタリーの撮影に行ってきた。被写体、インタビュイーとして。
まぁ、大雑把に言って「映画」のことについて、私のフィルモグラフィーやら、「あなたにとって映画とは?」とか聞かれたわけだ。実際こうやって受けるまでは、何だか口述諮問みたいで嫌だなぁ。と思ったが、実際質問を投げかけられると、それはそれで楽しく受け答えできて、これが撮影されていて、「誰か」知っている人、知らない人の目に触れることになるのであることはあまり気にすることなく出来た。
一回生の頃に作った映画について、約3年以上の歳月を経て質問を受けると、なかなか面白い。自分の映画に対する考え方がたった3〜4年のあいだに結構変わっていて、確かに多少気恥ずかしい気もしたが、面白かった。こうして3年前に作った映画はもはや私とは独立した存在として、3年という歳月を過ごして来たのだな、と感じた。
どんな映画をこれから作りたいか?と聞かれて、私は「観た者が、映画に観られていると感じてしまうような映画」と「映画そのものを鏡にする試み」と応えた。前者は今のところヒッチコックの『裏窓』を超えるような構想を持つに至っていない、後者に至っては、考え出すと映画というよりはインスタレーションに近いものになってゆく。高校時代に安部公房、とりわけ『箱男』を読んでから、その書くことと書かれることの「不機嫌な関係」を追求した作品、小説の、文学の、言語表現の可能性を追求した作品群にむしろ「映画の側の者」としての私のフィルターをかけることによって、安部公房の小説に成した試みを映画的に解釈してゆくようになった。作者の存在と、物語世界内の存在としての話者の存在の奇妙なねじれ、この体験が無ければ、ゴダール吉田喜重といった「表現の極北」に興味を抱くことが無かっただろうといえば言い過ぎだが、きっかけになったのは確かである。未だに古めかしい、ともすると時代遅れともなりがちな入れ子構造の、メタ的な構造を持つものに、ある種フェティッシュな好みがあるのはこのためだろうと思う。
そのほか、よくここで述べているキャメラ無しでは、被写体の存在無しでは、私一人きりでは映画は成し得ないのだ。という当たり前かつ重要な話題など。
あと、「形式」と「内容」という不機嫌な二項対立のこと。私は以前は正直に言って、作るときも、鑑賞するときも、「形式」にこだわっていた。極端な話「内容」などどうでもいい、と。しかし、ちょっと考えてみると、その二項対立は物事を考えるときの便宜上の区別にしか過ぎず、二つの要素は不可分なもので、片方を抽出することは厳密には出来ない。2者の厳密な境界は無い。「内容」なき「形式」、またはその逆など実際には不可能である。ということ。ある「内容」には、ある「形式」が必然的に必要なのであって、そのとき、以前にも言ったように、形式が内容となり、内容が形式となる瞬間が訪れるのであろう。そして、その幸福な瞬間はいつでも訪れるわけではなくて、その地点を嗅ぎ分ける能力がいわゆる「センス」というものではなかろうか。これは狭義の、映画の形式のみではなく、広義の映画や文学などといった形式についても言えることで、ある種の作品の内容は絶対的に小説という形式を欲していたり、映画という形式を欲していたりする。そしてその逆もあり、ある形式は絶対的にある内容を欲しているのだ。そのあたりが、私が一般的に小説の映画化といった類のものに警戒心がある理由だろう。
というわけで、その「某後輩」氏、ここをみてるのならば、たまには足跡を残していくように。ギャラはそれで良いです(笑)。
私の知り合い以外の人がこの文章を読んで、面白いのだろうか…。まぁ、いいや。
少し今日はナイーブな内容であった。