三池崇史『ゼブラーマン』2004年/日本 @リサイタルホール(試写会)

哀川翔の主演100本目にして、宮藤官九郎のホンを三池が手がけたという話題性だけでも十分な作品。「クドカン」の脚本は特に映画の場合、妙に良い子ぶっていて、面白みに欠けるものか、もしくはその逆に「やりたい放題」なディテールの書き込みなどで、全体の雰囲気を無視しているという印象がある。特に後者の場合はクドカン作品ということが前面に押し出され、それに堂々と勝負できる演出家に恵まれていなかったと思われる。テレビドラマという枠ではその枠を意識的に破壊しにかかっていて、それが気持ちいいのだが、映画という枠になると途端におとなしくなり、その枠に収まろうとして、逆に映画と呼べるような代物では無くなってしまう。
クドカンの作品史的にも三池崇史がそれを監督するというのはひとつの理想形であると思う。三池崇史の暴走のし方、どのような重要と思われる作品であっても、毎年量産しているあまたの作品のうちの一本でしかなく、かといって手を抜いているということでもなく、さらっと撮り上げてしまう、このような作家に演出されるのをクドカンの映画脚本は待っていたのではないだろうか。何よりも三池のフィルモグラフィーにあっては、クドカンの脚本も突出して「異状」ではない。ここに至って初めて、クドカンの脚本はテキストとしての面白さから飛躍する。
先ずファーストカットで、三池崇史が先生攻撃を加える。バスタオルを巻き佇むババァの前を生々しくシマウマが通りすぎる。これはクドカン作品であると同時に三池作品であると宣言する。銭湯の脱衣所に置かれているテレビが異状事態を告げている。銭湯をこのように猥雑に描けるのはやはり三池である。その猥雑な銭湯の画面にCGの画面が重なる。このいいかげんな組み合わせかた。ディテールは確かにクドカンのそれだろう。しかしながら違う人間が映像化するとこうも違うものか。心地よい下品さがある。(それでもなおこの作品にはディテールとしての楽しさもあって、放射能を武器にするテレビヒーローやゼブラーマンの主題化を歌うのは水木一郎だったり、その「テレビ放送されたゼブラーマン」の映像の質感だとか、敵の怪人の造形だとか…。そういうものは確かにある。がこれは一種の慰み者にしか過ぎないと思う個人的には非常に楽しめるのだが。)
フィクスでのロングテイク、手持ちキャメラによるロケーションシーンが数多くみられたが、これは最近の三池の特徴らしく、言ってしまえば、早く撮影を済ます方法だろう。そして、この結果得られるイマージュは緊張感を持っているわけでもなく、リアリティを追求したものでもなく、ただただ、そのようなイマージュとして幾分の奇妙さを匂わせながらも、特に主張することなく通りすぎていく。三池の作品においてはこのような批評はあまり意味が無いので無用であろう。三池の作品はこのような細かい技法ではなく、それらの技法をただただ映画の為に無頓着に取りいれ、全体をいびつにしてもなお、あふれ出てくるモノ集約されるのであろう。こうなれば三池の膨大なフィルモグラフィーのたった一本を取り上げて分析するのはいささか無理がある。全ての作品を頭を空っぽにして垂れ流しのようにして観なければとは思う。そして、観れども観れどもそれを超えるように増えて行くフィルモグラフィーとの対決こそが三池作品を観るということなのだろう。しかし、そのような酔狂なことが出来る人間は限られているが。個々の作品同士の差異よりも、もう少し大きなまとまりで彼の作品を観なくてはなるまい。かといって、『着信アリ』にはどうも食指が動かないのだが…
惜しむらくは敵の描写である、ここでの敵はディテールしか持っておらず、全体像として彼らが何なのかが描かれていない。かといって、何だかよく分からないものが襲ってくるという恐怖感があるわけでもない。敵はゼブラーマンたちの物語を完成させるためにのみ存在し、何も言わず死んでいく。そこには特撮ものの伝統である、敵の尊厳、悲しみがまったく無く、むしろそのまったく無いことが私には悲しみに思えた。この作品を特撮の系譜で観るのは間違っているのは分かるが。しかし、この作品をはじめとする多くの作品群、マトリックスシリーズも含めた登場人物が超人的な動きをする作品のリアリティとは、日本において脈々と受け継がれている特撮や鳥山明のマンガなどの上に立っていると言うことを忘れてはならない。