侯考賢(ホウ・シャオシェン)『ミレニアム・マンボ』2001年/台湾・フランス @西灘劇場

先ずファーストカット。長い通路を女性が歩いて行く、スローモーションで捉えられたショット。オープニングクレジットの終わり頃から流れ始めた音楽とともに緩やかに流れる。モノローグがこれがモノローグの語り手から見て10年前の2001年の話だと告げ、終わりの無い閉ざされた通路をどんどん進んでいく。カーブを曲がりきってもそこは同じ通路。だが、その先には地下へと続く階段がみえる。
モンタージュによってこの映画の素晴らしさは成立している。場所と場所ととを繋ぐモンタージュによってである。
逃げ出したいけど逃げられない、台湾での生活の合間に待ちうけていた、夕張での美しいシークェンス。最初このシーンになって私がほっとしたのは、私が日本人であり、台湾の猥雑な風景に拒否反応を示したのかと自分を疑ったが、そうではなかった。映画の街、夕張で生き生きとした息吹を受けたこのフィルムは、その後に続く総べてのショットを一変させてしまった。台湾に戻ってきてからも、ショットは相も変わらず逃げ出したくなるようなものだ。だが、そこには最初に観たショットとは明らかに違う息吹があった。夕張での光景、その生活の息吹を経て、ここでの生活もそれはそれで生なのだ。彼女は逃げしたいが他に行くところも無いし、行きたくない。そういう場所がスクリーンには絶えず映し出される。「ノーマルな生活」をしようと頼ったガオもやはりヤクザで、決してノーマルではない。彼の場所に安らぎを求めるがやはりままならない。彼はヤクザ固有の事情によって日本へ行き、彼女はまたしても、日本へ、しかしそこは夕張のようなユートピアではなく、台湾と同様に生々しく人が生きている東京の街である。しかしながら、ここでは彼女以外の人がまったく姿を現さない。ことづけをしてくれたホテルの従業員さえスクリーンにはその姿を現さないのだ。
そこに思い出されるのは、夕張の美しい光景。美しい映画たちが彼女とこの映画に悲しくも美しい晩夏を唄う。