押井守『Talking Head トーキングヘッド』1992年/日本 をテレビ(日本映画専門チャンネル)で

押井守の実写作品の中では私個人的には一番面白かったし、テーマ的に当然といえば当然なのだけれど、実写でやる必然性を感じた。劇中に数回登場するアニメーションのパートの効果もあり、先日id:Pinxterbloemさんにも指摘された、実写とアニメとの差異を意識的に楽しんでいることも感じ取れた。というよりも、感じ取れる域に作品が達していた。"私"が電話を取り、モノローグになるり、「簡易ストップモーション」になる場面での、
受話器のコードのゆれ方は、確かに楽しい瞬間である。人間よりもむしろ物質の慣性の方を支配化におけなかったという実写的瞬間は面白かった。アニメーションでは「意図的に」しかなし得ないショットである。
押井守がいわゆるメタフィクションに関して、実は1歩距離を置いていることがよく分かる作品だった。というのも、この作品だけでなくすべての作品についていえるのだが、登場人物には多かれ少なかれ押井守自身が反映されているとはいえ、決して押井守自身の「私」、つまり「表現しようとする自己」そのものは、例えばゴダール諏訪敦彦のように姿を現すことはない。どのようなメタ的構造を持っていて、観ている側の現実と、劇中の現実、それらの層の境界を曖昧にしようとも、押井は確固たるフィクションとしてそれを構築されたものとして提示する。正直言って、私は劇中の"Talking Head"のラストで演出助手が「貴方よ!」フレーム外を指差した次の瞬間、画面にはキャメラの後ろに立つ押井守自身が現れるのではないかと思ってしまった(陳腐ではあるし、そのあとの最期の展開でそのようなことはありえないことが分かるが)。この作品はアニメの製作を舞台にしているという仕掛けで、様々な製作過程に言及しつつも「撮影」についてはついぞ言及しなかった。何度か役者がキャメラ目線になるショットがあった程度のものだ。アニメが自己言及するような線画アニメによるアニメのキャラクター論(『エヴァンゲリオン』の最終回近くのあれはここからの引用だったのか)はスリリングで、アニメーションの画とはあくまでも手で書いたものに過ぎないことを改めて暴露しているシーンだったが、もう一つ外のレヴェルで、それを捉えているキャメラのレヴェルでそれを成しはしなかった。「映画を観ることと観た映画を語ることとに直接の関係はない」といっていたように、ここで問題にされるのは我々一人一人の観客とスクリーンとの関係であって、現場に実際に存在する延長を持ったものとキャメラ、フィルムとスクリーンに映し出されたイマージュとの関係ではない。
べつに、だから駄目だというわけではなくて、この作品はいわゆるミステリー物としてよく出来ていると思う。そもそもミステリーにしようとしたこと自体も意図的だったろう。"私"は探偵と言われ、殺し屋だと応えるが、この作品は探偵ものの哲学でもある。「物語」をテーマにするには探偵物はもっとも適している、ゴダールの『決別』で探偵が「物語を買いに来た」と冒頭で述べるように、探偵はその行動そのものが物語の軸でありながら同時に物語を発見していくストーリーテラーでもある。
そう考えると"私"もまた、劇中劇の登場人物でしかなかったというのが大変興味深い。それらを劇中劇として最終的に相対化することによって、それまで観たものが、観た瞬間とこのときでは違って「みえる」。これがやりたかったのか。そして、『紅い眼鏡』でも印象的に扱われていた兵藤まこ扮する「お客さん」。これは2重の意味を持たせていたのだ。劇中では幽霊のような扱いとしての「お客さん」だったが、無論もう一つ上のレヴェルでは我々観客のメタファーだろう。それが物語に介入していくという仕掛けも成されていたのだ。そしてラストで、「現実」のレヴェルに戻された場ではテレビモニターに映し出された顔しか現さず、その画面も消えていく。初号試写を終えてぞろぞろ出てくるスタッフの中に彼女の姿はもちろんない。彼女はフィルムの中にしか存在しない、ペルソナしか持たない幽霊か。それともやはりあくまでも観客のメタファーであり、これらの作品を観ている地点の「現実」からの介入を意味しているのか。どちらの意味もあろうが、やはり実際の、この作品の制作レヴェルでのこの作品を支配、コントロールしていることの象徴として受け取るのが面白いと思う。最期にモニターが砂嵐になり消えるのは、この作品が完成したということを示しているのだろう。