押井守『御先祖様万万歳!』1989年/日本

むかし劇場版の『MAROKO』を観たとき(部室のテレビでながら観だったので特に集中してみたわけではなかった)からなのだが、先ずこの作品で全篇を通して気になったのは、登場人物の関節である。まるで昆虫のように節を強調して描かれた登場人物は、見るからにマリオネットであり、その動きも極端化された演劇調というよりも舞台演劇風に味付けされた人形劇といった印象。この作品のテーマは「家族」とか「物語」と行ったものだと思が、これがアニメーション作品であるというレベル以上に、幾重にも仕掛けが施されている。
フォーマットとしては「うる星やつら裏バージョン」と巷で言われているらしく、その通りで、古川登志夫が演じる主人公の元へ突如自称孫の娘(麿子)が訪れるという物語の「強引な」幕開けといい、浜茶屋とその人気のない海水浴場といい、イトーヨーカドーの店内描写といい、ナレーションの永井一郎といい、明かに「うる星やつら」を意識させる記号で満たされている。また、この作品は登場人物がかなり限定されていて、主人公が高校生ならば学校という不特定多数の人物が、名前もない人物が画面に現れたりしてもいいものだが、それも回避されている。このあたりもうる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を彷彿とさせる。そもそも麿子がかぶっているあの帽子は、『ビューティフル・ドリーマー』でラムと思われる少女がかぶっていた帽子ではないか。最終話に観られる帽子で顔が完全に隠れたイマージュで、もはやこれは明かである。この作品は『うる星やつら』から原作の高橋留美子による意匠をすべて剥ぎ取って再構成したものであるということが出来よう。
全話通して、登場人物たちが自分たちが物語の中を生き、物語を演じ、物語である以上それには終わりがあり、終わらせなければならないと繰り返し述べ、その場面では唐突にスポットライトが当たったり、何らかの舞台装置風のギミックが登場したりして、ことさらに物語を相対化させようとし、虚構が虚構であるとこれでもかというくらい押し付けてくる。
最終話「胡蝶之夢」。このサブタイトルだけでも、ああ『ビューティフル・ドリーマー』かと思ってしまい、冒頭からの夢のシークェンスが電車の中で見ていた夢として覚め、その後続く立喰い蕎麦屋でのシークェンスがごみ収集者の助手席で観た夢として覚めていくのを追っていくと、またこの繰り返しが延々と続くのかと思った。そして最期にはもとの日常に戻り、それでもこれは夢か現実かよく分からないけど、それでも平凡な日常を生きていくしかないよね。とかいった感じで終幕を迎えるのだろうと思った。
が、さすがにそうはいかなかった。それは雪の降るなか黄色い飛行船(当然これは『機動警察パトレイバー2』を思い出すが、「黄色」とか「飛行船」というのは押井にとって何かこだわりなり意味なりがあるのだろうか、<追記:↓に記した『Talkinng Head』でもクライマックス近くに表面の破れた地球儀から黄色い羽が噴出してくるカットがある。>ともかく、『パト2』の際、この作品の存在を意識していたのは間違いなかろう。さらにこれはただの遊びだと思うのだが、飛行船には"Kodak"のロゴがあり興信所の壁には"nikon"のロゴがあるのは興信所の男が最初から物語にコミットしていたのだという暗示だろうか。)を追い、倒れた主人公が見るのはまさに胡蝶であった。という当たりから物語はそれを拒否するかのように無残に完結してしまう。これが『ビューティフル・ドリーマー』で本当にやりたかった結末なのかと思ってしまった。恐ろしく、そして画面のイメージ通り寒寒しいイラスト。物語の始まりを告げた黄色い飛行船は、雪の中以上に鮮やかに輝きを放ち終わりを告げた。『ビューティフル・ドリーマー』では、保留を付けながらも夢邪鬼の思いやりで(これは押井自身のファンと、高橋留美子と、これからも続くであろう『うる星やつら』の物語への思いやり、気遣いであろう)元の世界に戻っていったが、この作品ではそうはさせなかった、もともと自分の原作であるからだ。つまり、最初から崩壊させる目論みで作られた世界、キャラクターである。だから、キャラクターの関節にマリオネットのような刻印があるのも、何度も何度も繰り返しメタ的な芝居を打つのも、これらすべて押井守自身にあらかじめこのような物語の死を決定されていたからであろう。
「家族」というキーワードが出てくると、どうしても大島渚の『儀式』や吉田喜重の諸作品を想起してしまうのだが、それは正しい連想だと思う。「家族」の物語性を暴く物語はこれまでも散々語られてきた。吉田喜重小津安二郎を分析して述べた言葉「葬式などの儀式のとき、親は親として子は子として演技することをまわりは要求し、自身もそれを良しとする。この瞬間は家族が家族を演じてもよい瞬間である」。これは『晩春』のラストで、原節子笠智衆に三つ指突いて結婚の挨拶をする場面を取っていったものであるが、この作品において儀式なるものはまったく登場しない。そのために彼らは言葉によってそれを定義し、それに反駁し続ける。しかし、それは麿子が「おじい様!」と叫び登場したのに対して結局論駁できなかったように、母親が「私たち家族」と述べるたびに強固なものとなっていき。そんなもの概念に過ぎないと言ったところで、力がないのである。
この「胡蝶之夢」という最終話は、物語の最終話というよりも、第5話まで続いた物語に対して相対的な場所に位置するものだろう。実質的に第5話「一蓮托生」で物語は終結していて、文明は麿子の父親であると同時に息子であり犬丸の息子でもあると言うことが明らかになり、麿子も共に出奔する時点(『ビューティフル・ドリーマー』でいう皆(とくにしのぶ)が突然いなくなり始めるあたり、いなくなりかたの形容まで一緒である)で綺麗に終結している。「オチ」を最終話として独立させたのは構成として非常にうまいと思った。
幻の押井版『ルパン三世』はどうなったのだろうかと、無駄な夢想をしてしまう。物語を「壊す」にしてもやはりこのようなあらかじめ壊されることをきめられた物語よりも、他人が作った『うる星やつら』のようなより強固な物語、より広く諒解されている物語の方が壊しがいもあるし、よりスリリングで楽しいものになるだろう。現実的な障害があるのはもちろんわかるが。