フランソワ・トリュフォー『映画に愛をこめて アメリカの夜』1973年/フランス―イタリア をビデオで

オプチカルのサウンドトラックの帯が左側に提示され、スタッフロールが流れるオープニング。映画撮影を舞台にした作品であるのはもちろん知っていたが、このオープニングで、この作品はそれよりももっと、フィルムについて、シネマについての作品だということがありありとわかった。そして次に示されるのはリリアン&ドロシー・ギッシュ姉妹。画面に示された作品はわからないが、リリアン・ギッシュならばおそらくD・W・グリフィスの作品であろう。となればこの作品がオマージュを捧げられているのは映画そのもの。とりわけグリフィス以降のドラマであろう。
フランソワ・トリュフォーもやはり編集が上手い。とくに前半のジャン=ピエール・レオーとその恋人が控え室で、ベッドを寄せたりしているシークェンスの編集などは見事である。我々の視線を誘導するかのように左右へパンするキャメラ。かと思えばその視線の流れを裏切るように、パンしていたのとは逆の方向を捉えたショットがつながる。そして冒頭の地下鉄駅周辺のオープンセットでの撮影シーン、レオーが父親役にビンタをくらわせるシーンでは、何度もNGが出され、繰り返し同じ動きがなされる、それの編集による省略のしかた。カチンコ―ビンタのテンポの良い繰り返し。
この作品には繰り返しや反復といったモチーフが多くあらわれている。同じシーンを何度もNGをだして繰り返すという映画撮影そのものであるシーンのみならず、その撮影ラッシュを見る光景、監督の少年時代の光景と思われる『市民ケーン』の劇場用スティル写真を盗むショット。これらの反復は以前吉田喜重小津安二郎について述べていたように、1度目と2度目、3度目では意味が微妙にずれてくる。息子が白血病で死にそうな女優はNGを出すたびにその悲壮感は当然増すだろう。3度目のNGはもはや狂気である。夢のシーンは最初苦労に追われている監督の苦々しいトラウマかと思えば、実は映画に関する美しい思いでであった。
そして、この作品で描かれている映画撮影という行為そのものが反復なのである。毎日撮影のノルマをこなし、ラッシュを確認し、俳優やスタッフたちのトラブルを乗り越え、また撮影する。監督の言葉「一度トラブルが起きるや、完成させることが目的なってくる」という言葉はまさにそういった反復の中に埋没してしまいそうになる状況を物語っている。しかし、この反復は決して退屈でも、苦痛でもない。劇中で監督役のトリュフォーが失恋した俳優役のレオーにかけるあまりにも美しく悲しい言葉「君や僕のような人間には映画の中にしか幸せはない」。これはフィルムの中の人物が言っていることであると同時に、現実の彼らの関係を知っていると涙なくしては聞けない台詞である。この作品の撮影が終わってもまた次の撮影が(運がよければ)あるだろう。最初の撮影シーンと最後の撮影シーンが同じセットで行われているのはまさにそういうことであろう。そして後者には雪が積もっているという美しい差異と、もう一つ父親役の俳優の死という悲しき差異がある。しかしそういう差異にもかかわらず、撮影は続き、いずれクランクアップもしくは中断という終わりが待ちうけていて、そして、また別の撮影が待っている。それはもはや日常である。ある俳優の妻が「監視」にやってきていて、映画人たちを狂人扱いするが日常が違うのである。
監督自身が演じる監督。かれは常に質問されそれに答えなければならない、監督の孤独。そういった趣だろうか。劇中で撮影されている作品は筋立てからしていかにもトリュフォーが好みそうな、筋である。もはやこの監督はトリュフォー自身が演じるまでもなく、トリュフォーであろう。となればこの作品の中でのトリュフォーの振るまいが気に掛かる。俳優やスタッフたちの赤裸々な日常が描写される一方で、彼自身はそれらに悩まされ、解決し、とにかく撮影を続行しようとするものであるが、監督にだけ生活感がない。唯一あるのは夢を観ている美化されたシーンのみ。トリュフォーと決別することになるゴダール

私はトリュフォーとは、金に関することも原因のひとつとなって、完全に……決定的に喧嘩別 れしたのですが、でも私はあるとき彼に、金に関するわれわれの間のそのやりとりを思い出させながら、こう言ってやりました。「君の新作(『アメリカの夜』)を見たよ。でもあの映画には、欠けているカットがひとつある。ぼくは君が撮影期間中にジャクリーン・ビセットの腕をとってパリのレストランに入るのを見たけど、そういうカットをあの映画に入れるべきだよ」と。〔……〕 彼はほかの人については平気でいろんな物語をでっちあげているにもかかわらず、自分とジャクリーン・ビセットのそうした関係を示すカットは、ひとつも撮ろうとしなかったのです。  彼は私の言葉に答えようとしませんでした。そのあとはどんな接触もありません。でも『アメリカの夜』がある年のアカデミー最優秀外国語映画賞を受賞したのは、偶然からじゃありません。なぜなら、あの映画はまさにアメリカ的な映画だからです。〔……〕 アメリカの連中がこの映画に賞を与えたのは、この映画が、映画というものがどういうものかを──明らかにするように見せかけながら──見事におおい隠したからです。人々には理解できないような魔術的トリックをつかい、きわめて快いと同時に不快でもある世界をおびきよせたからなのです……人々にむしろ、自分はそうした世界には属していないという安心感を与え、それと同時に、映画を見るたびにきちんと5ドル払うことの喜びといったものを感じさせたからなのです。(『ゴダール/映画史I』より)

と述べたのは非常に頷けるものである。先に述べた「日常が違う」。つまりこの作品もまた閉じられた作品として観られるだけの立場に甘んじてしまっている。この文脈から言えば深作欣二の『蒲田行進曲』と同じ醜さを持っていることになろう。もうこのような映画作りはアメリカ以外では出来ないという意味においてもそうだろう。
それでも、トリュフォーとレオーとの感動的なやり取りはやや感傷的な気分ではあるが、良かったと思う。その良さとはやはり、二人が命を掛けて築きあげたものの上に多少なりと立っていると思わせるからだろう。