ジャン=リュック・ゴダール『アルファビル』1965年/フランス・イタリア をビデオで

徐々にその速度を速めるライト(後にアルファ60を象徴するものであることが分かる)とともにスリリングな音楽が重なる。やがてスティルショットで捉えられた壁面のポスターと、そのもとを歩いている最中の人間にキャストのクレジットが徐々に重なってゆく。ゴダールの作品を観るたびに強く感じるのは、思想だとか、映画史的な特殊性だとかよりも、先ず<リズム感>である。観る順番が逆になってしまったのだが、以前要約すると「映画としてダメだ」と私が述べた押井守の『紅い眼鏡』はかなり大きくこの作品に依っている部分がある。終盤の「簡易ストップモーション」などは言うまでもなく、全篇にわたる意匠、抽象的な言い方をすると雰囲気は鈴木清順の『殺しの烙印』よりもむしろこちらに近いのではないかと思った。まぁ、このことについてはこのあたりにしておこう。
この作品は無論ナラティブな意味で言うとSFに違いない。ラストで夜の高速道路を惑星間に広がる銀河であると称しエディ・コンスタンティーヌアンナ・カリーナを乗せた車が疾走したり、おそらく当時「最先端」であったろう建物や、コンピュータの研究室などを150光年進んでいるアルファ60や、その都市アルファビルであると称したりする。無理矢理な面白さは確かにある。全篇オールロケーション撮影でSF映画を撮ってしまおうという試みは、40年近く経った今観ても刺激的で面白い。
しかし、この作品を観て1番強く感じることは、これはこのようなSF作品という物語を持ってはいるが、目の前に映し出されているのは、フィルム・ノワールであるということだろう。むしろフィルム・ノワールをSFという舞台装置を用いてやってのけたと言う感じである(フィルム・ノワールに関する知識の集積が私にはまだ乏しいので、その上での乏しいイメージしか持ち合わせていないのが情けない。おそらく具体的な作品を指摘出切るような「引用」をこの作品でも当然しているであろう。本来語る資格はなく、沈黙するのが賢明で正しい姿勢なのかもしれないが、それを無視してキーを打ちつづけよう)。金と女を愛し、「凡庸な」ウイスキーを友とするスパイが、敵であるところのアルファ60の親とでも言うべき人物フォン・ブラン教授の娘、愛を知らぬ住民の一人、実はレミー・コーションを監視していた女、すなわちファム・ファタールと恋に落ち、敵を殺し2人で逃げおおせるのである。もちろん目で観る部分でも、彼を狙う者、影が強調された暗い画面、埃に浮かぶランプ、突如何の脈略もなくネガに反転する画面、殺しのアクション、カーアクション、暗闇に浮かび上がる顔、暗闇に浮かび上がる愛の交換。それらが、「ゴダール流」の編集で我々に投げ出されてくる。観終わった後に頭に浮かんだのはレオス・カラックスのことである。『汚れた血』。SFとフィルム・ノワールとの共闘。
純粋にSF作品としても、アルファ60というコンピュータは興味深い。物質としての延長を持たないプログラム、機械であるところの「彼」を映像として描写する際に、点滅するランプや回転するファンを用いていることは人口声帯を用いたゴダール自身の声をあてている彼の声の描写よりも(これはこれでかっこいいし、同様な手法で「神」の声を表現した『ゴダールの決別』にも繋がるだろう)気になる。先ず前者のランプはこの作品のわずか3年後に公開されたスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』をどうしても連想してしまうのだが、何か引用元があるのだろうか。映画はこのような延長を持たないものや概念なども、あくまでも音と映像で表現せねばならない。その葛藤がいわば映像の進化をもたらしているのだと、ナイーブな言い方も出来るだろう。とにかくそこにあるものを撮影せねばならないのだから。アルファ60の設定や発言は『マトリックス』、とくに『〜リローデッド』以降にみられるその枠組みを想起した。『アルファビル』は全てのSFのリメークであり、それ以降のSFは『アルファビル』にリメークである。というのはもちろん言い過ぎである。
レミー・コーションの冒険。「最期の冒険」である『新ドイツ零年』を観なおさなくては。この『アルファビル』を観た後で観ると、違って見えるに違いない。