北野武『HANA-BI』1997年/日本 をビデオで

最近とみに映画に関して語る言葉を失ってしまっているので、この傑作をどう自分の納得がいくように言語化するかまるでその術がわからないのであるが、おぼつかないながらも何か記しておこう。
タナトスという言葉はおそらくもう使い古されているであろうが、武を始めこのフィルムに映し出される人間全てに漂う、死の香り、というよりは無臭感。まるで最初から生きてはいないかのようである。自らも他人も、愛する妻でさえもその死を全く厭わない様子の西の行動、綱渡りのように見えて、決してそのときまでは落ちない、落ちさせてくれない、綱渡り(例えば焚き火に銃弾を放りこんでそれが炸裂するが「当然」当たらない)も、それでもこの絶対に落ちない綱渡りも、最後には必ず落ちてしまうことが終始予感される。これはまるで小津安二郎の『父ありき』のあの美しい父子での流し釣りのシーン、あの瞬間がいつまでも続くわけが無い(蓮實重彦)と思わせるのと同じようである。
やはりこの頃のギャグとシリアスが紙一重のような緊迫した画面は素晴らしい(このバランスが、よりギャグの方へ傾いた作品が「ビートたけし監督作」の『みんな〜やってるか!』であろう)。一見ストイックで、ロベール・ブレッソンと比較する言葉もどこかで見た覚えがあるが、それとは少し違うような気がする。例えば終始言葉を発しなかった妻(岸本加世子)も言葉を排したストイックな映画作りというよりは、ラストの二言へと至る劇的な演出であると考えるのが自然だし、無言の間で繰り広げられる暴力はギャグ、コントの文法に近いと思う(前述の『みんな〜やってるか!』観ればそれは一目瞭然であろう)。これは美学とかいうよりも北野武の持っている、身体に染み付いているリズムなのであろう。おそらく北野武という監督は、いろいろ計算してやるというよりは呼吸するように映画を撮ってしまうタイプなのであろう。
それ以前の作品と比べて画面作りや、物語の構成が洗練というか上手くなっていて、時制をバラバラにして、回想シーンなどを巧に使って語られるこの世界は、ただ上手くなっている、巧になっているというだけのものではなくて、この作品を観ている「現在」からみて、この作品のおかれている時間が私達の過ごす時間から(映画に夢中になってとかいう意味ではなく)完全に遊離していている。
やはりどうしても『座頭市』は納得いかない。