ペドロ・コスタ『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこに隠れたの?』2001年/ポルトガル・フランス @シネ・ヌーヴォ九条

この作品はドキュメンタリーというよりも、映画作家ストローブ=ユイレの2人を考察した一個の映像である。なんと言ってもユニークなのは、彼らの作品の撮影現場ではなく、編集しているところを終始捉えつづけているということだろう。冒頭から突如始まる、ビューワーによって、行ったり戻ったりする映像(恥ずかしいことに、私はストローブ=ユイレの作品を観る機会を一度逃し、他は恵まれずといった感じで、当然ここで編集している『シチリア!』も未見なのがとても残念である。が、この作品のエッセンスは何かしら感じることが出来たとは思う)。この「吃音的」な映像を観て、真っ先に頭に浮かぶのは無論ゴダールの『映画史』を中心とする一連の作品群にみられる引用の一手法であろう。そう、ゴダールがあれらの映像でしていることは、まさに編集(モンタージュ)であり、そのモンタージュすることそのものを観せ、それと同時に考察した経過である。これは一度でも、たとえ8mmであっても編集をしたことがある者には、手に取るようによく分かる、映像の分析方法である。これがPCによる編集だとあまり実感できないと思う。ごく数コマの間を正しいタイミングを求めて往復運動をすることはあっても、ショットの最初にもどろうと思えばクリック一つであるので、その間の映像を何度も見る回数はフィルムによる編集の場合と比べて、少ない。このことはもはやフィルムという物質に対するフェティッシュな感情とは一線を画していて、どこかのインタビューでゴダールも述べていたと思うが、この往復運動は結構重要で、私がフィルムを編集する場合、この繰り返しの動作を通してはじめて自分が何を撮影するのかを少しずつ理解している部分がある。だからある程度自動で勝手に出来てしまうDVで撮り、PCで編集した場合、作品がより自分にとって他者的で未知な者に感じられ、自身でも把握しきれない部分がある。「厳密さ」にかける部分があるのは観とめざる得まい。これはこれで面白い部分もあるのだが。
さて、この作品はほとんど2人の編集風景とその編集されつつある映像からなっているが、これを観ると本当に編集こそが映画において真に創造的な行為であり撮影などはただの素材集めに過ぎないということがよく分かる。特にストローブ=ユイレの場合、編集も2人でおこなっていて、まさに作品が生み出される瞬間を垣間見れる。タイミングが決定されていく過程は非常にダイナミックである。よく言われる彼らの「厳格さ」。それは、一齣の差にこだわり2人で議論を重ねることには留まらず、その一齣の間で変化、運動をしている役者表情、特に彼らは目や口の動きに注意して、役者が発する声の最初の一音のその子音にまでこだわって「厳格に」編集を重ねていく。彼らにとってあり得たかもしれないもう一つの作品などというものはあってはならないもので、「彫刻家が大理石からある彫像を彫るように」、「これしかない」瞬間をどこまでも厳格に追及している。
普通メイキングとか映画作家のドキュメンタリーとかというものは作家自身や役者へのインタビューや撮影風景が主で、編集風景というのはほとんど観られないと思う。監督がバカでそれを撮ろうとしていないというのもあるかもしれないが、おそらくは編集室にキャメラとそれに伴う人間がが入るを監督や編集マンが拒否しているのもあるのではないだろうか。藤井謙二郎『曖昧な未来、黒沢清』に足りなかった風景は黒沢清が編集室で猛威を振るっている風景だったのである。そこで見えてくるのはペドロ・コスタというこのフィルムを創った人間の存在である。本編で直接その指紋を見せることは決して無いが、彼の存在がこのフィルムの可能性を決定的なものにしている。編集室に据え置かれたキャメラ、ホールで講義し、上映が終わり階段に座り込むストローブ。これらのまなざしに確かにペドロ・コスタストローブ=ユイレとの信頼関係が透けて見える。しかし、このフィルムはジャン=マリー・ストローブダニエル・ユイレという人間にはほとんど目を向けず、「映画作家ストローブ=ユイレ」とその作品、編集台との間に向けられている。