マイケル・ムーア『ボウリング・フォー・コロンバイン』2002年/アメリカ をビデオで

この映画のメッセージの正しさを議論するの難しい。というか、それを議論すればするほどこのフィルムとはかけ離れたところへ行ってしまうのではないか。たしかにアメリカの社会が持つ銃を始めとする「恐怖と消費の一大キャンペーン」に対する考察、その過程を映像でみせていて、それはもちろん十分議論に値するし、マイケル・ムーアの考察も合点がいくものが多いし、「アメリカ」という多面体の位置側面を知るには極めて面白いものである。
が、やはりゴダールの「ムーアはイメージとテクストを混同している」と言うコメントが実にしっくりくる感想を私は抱かざるを得ない。
メッセージの正しさと方法論の正しさと区別して考えなければならない。ということだろう。おそらくムーアのメッセージは「正しい」。まだ観ぬ『華氏911』もおそらく「正しい」だろう。だが、そのテクストとしての「正しさ」とイメージとしての「正しさ」は必ずしも同居するわけではない。というか、概ね一般に「ジャーナリズム的」な作品というものにはそのほうが多い気がする。イデオロギーを表現する手段としてのイメージ。そのイデオロギーが「正しいか」どうかに問題が帰してしまい、率直に言って長いスパンで見ると堂々巡りが予感される。二項対立のあいだを時勢をみて行ったり来たり。私が希求するのはこのような不毛から、言語的な不毛を脱却するためのイメージであって、どちらが正しいかジャッジする、あるいはジャッジさせるような類のものではない。
結局のところ、いみじくもこの作品の中で言われていた恐怖に対して銃で応戦するという構図と、ムーアが取ったマスコミ・ジャーナリズムに対する戦い方の構図というものは相似形であるといえる。「撮影」を英語では"shoot"日本語では「とる」と言うことを肝に銘じておかなくてはならない。
そういう意味でもムーアの映像への姿勢というものがいまいちみえてこないのが限界だとも思える。とくに自身が画面に登場する場面においてはなおさらで、そのときキャメラを廻しているのは誰かといった些細な問題も含めてムーアは今何を撮っているのかを感じ取ろうとするよりも、何を何のために撮らなければならないかばかり考えているのだろう。ムーア自身キャメラは武器であるという認識はあると感じられるが、そのことをもう少し考えられないものか。「ペンは剣よりも強し」とあったが、キャメラはもっと強いのだ。
とはいうものの、この作品は観るに値するものである。ただし、ほかのものも観なければならない。