是枝裕和『ワンダフルライフ』1998年/日本 をビデオで

採光窓から覗く月が実は書き割りだったことが判明する素晴らしいショットをのぞいて、やはり試写会以降のシークェンスは蛇足というほかない。
この作品は死についての話でもないし、過去の人生についての話でもない。ひたすら現在を、現在としての過去を見詰めたものであり、記憶と記録との差異についてつぶさに丁寧な視線を送っている作品である。前半の聞き取りのパート、現在に立ち現れてくる過去を再構成しながら丁寧にそれを語る「死者」、その表情からは徐々に生が感じ取れてくる。それらの専らテクストによりパロールにより示されつづけたものが、後半の再現ではなくて再現しようとする過程によって、見事に昇華する。撮影現場で見せる真剣で生き生きとした「死者」の表情にはこの作品最大の生の瞬間が確かにフィルムに刻み込まれている。そこで再現されて用途している過去は現在として彼らの前に立ち現れているのだ。そこで見せるスタッフ、俳優、そして「死者」たちのイメージはフィクション、ドキュメンタリーの位相を越えたところで、まさに言語化不能の真実のショットとして立ち現れてくる、非常に得難いショット達だ。これらの部分だけで、この作品を傑作としてしまうのも吝かではない。
しかし一方、ナラティブな話に視点を移すとどうもイライラしてしまう。伊勢谷友介が思い出を選ばず、ここの職員になったり、ARATAがここでの思い出を選び旅立ったりという釈然としすぎる物語を、最後で最初のシークェンスを反復させるといった器でもって、いかにも整然としたアウトラインに収めてしまうのはどうも納得がいかない。先述の素晴らしいショットが撮れてしまった時点で、このような整ったラインはもはや蛇足以外の何物でもないことをおそらく是枝監督自身気づいていたのではないか。それでも脚本通りに撮ってしまうのは残念である。どういう順番でこの作品を撮ったかという事情は私は知らないし、それを敢えて無視していうと、最初と最後の反復される月曜日の風景に何ら質的な変化を感じられなかったのはこの作品の汚点であると言わざるを得ない。あの撮影シーンを撮った後ではこのような撮り方にはならないはずではないだろうか。
素晴らしいが故に残念な作品である。