ピーター・ハイアムズ『2010年』1984年/アメリカ をビデオで

キューブリックだったら…とか言う泣き言は言うまいと思って見始めたのだが、もうそう言うことはどうでもよい。そもそもキューブリックがこれを撮ることなどあり得なかったし。
個人的な話になると、今、初めてこの作品を観てよかったと思う。「2001年」という年も過去のものとなり、まもなく2010年になろうとする今でよかったと思うし、もっと早く観ていたら私はやはり、『A.I.』を観たときと同様にキューブリックの影を追いながら怒っていたことだろう。とはいうもののこの作品にはキューブリック(というか『2001年宇宙の旅』)に対する敬意というか目配せというか、そういうものが配されていることは確かで、TIMES誌の表紙をキューブリックアーサー・C・クラークアメリカとロシアの首脳として飾っているというジョークには思わず巻戻して再確認したが、この作品そのものにはさして係わりないことも確かである。『A.I.』の序盤においてもキューブリックへの目配せは有り余るほどあったので、だからどうだということでもなかろう。個人的に嬉しかったり腹が立ったりするだけのことである。
本作はまぎれもなく、アーサー・C・クラークのものであろう。台詞やドラマから溢れ出てくる詩情はまさしくクラークの文学である。おそらく敢えて読んでいなかった小説の『2010年』も同様に、ともするとこれ以上に素晴らしいだろう。例えば、復活したHAL9000の振る舞いや突如姿を現すボウマンなど、『2001年〜』の記憶を持つものにとっては琴線に触れるものであるし、ラストのボウマンを含んだ大いなる意思からのメッセージなどはクラークの作品に多く観られるカタルシスである。これらはひとえにクラークの詩情の成せる業だろう。そしてこれらの要素はキューブリックが映画として冷静に回避した部分でもある。
では、クライマックスでの博士とHALとのやり取りが感動的であるのはなぜか。概ね前作を反復しそうにみえるこの物語をいとも簡単に冷静なる知性がそれを回避した、その瞬間のスリルはやはりピーター・ハイアムズの演出の着実さを評価してもよいと思う。これはほとんど、『ターミネーター3』のジョナサン・モストウの着実さと同じであると思う。たしかにキューブリックほどカット割りは厳密ではないし、音楽の使用にも閉口させられるような個所もあったが、先のHALとの対話やボウマンとフロイドとの対話や、船外活動での過去旧に陥るエピソードでの息遣いなど、前作をなぞったといえばそれまでかもしれないが、不愉快ではない。ただのエピゴーネンではないのは認めざるを得まい。ピーター・ハイアムズは下手ではない。
わりとこの作品、高い水準に達しているのではないだろうか。