是枝裕和『誰も知らない』2004年/日本 @梅田ガーデンシネマ

敢えて監督自身の言や、パンフやそのほかの情報媒体から窺い知れるその濃密な制作過程を無視して、フィルムそのものに注目しよう。それがやはり正しい映画への付き合い方だと信じる。
タイトルが出る前のシーン、まずこのフィルムで私の目に焼きつくのは「手」である。そしてこのフィルムは登場人物たちの感情の起伏をあらわにしないその顔面よりも雄弁に私に語りかけてくる。スーツケースを優しくなでる手、その爪の先は垢で黒くなっている。この、「手」の作品は妹を埋葬する強く、震えた手、それにそっと手を添える韓英恵の手へと至るまで、つぶさにこの映画の中で繰り広げられる生活のの主体として見詰められる。クレヨンを握る手、万引をためらう手、まどろむ子供をやさしくなでる手、植物の種を採る手、土を集める手、粘土をいじる手、マニキュアを塗ってもらう手、塗られた手、マニキュアをこぼす手、甲にこぼれたマニキュアが滲む手、洗濯する手、残り少ない現金を数える手、娘の髪をとく手…
何度と無く登場する石段、この石段は何かの境界だろうか。「誰も知らない」根城と、外なる世界との境界。いつ侵されてもおかしくないこの境界は、実際何度か侵される。長男の悪い友達、かりそめの母親代わりとも見紛う、だがしかして同じ誰にも知られていない存在である韓英恵、選ばれた者しかここへは踏み入ることが出来ない聖なる場所だ。たしか母親はここを歩くシーンが無かった様に思う。彼女にはこの境界は存在せず、軽々と飛び越えてしまうのだ。私はすぐさまこの石段のシーン数々を見て、諏訪敦彦の『M/OTHER』におけるあの坂道を思い起こした。あの坂道もまた、聖なる境界であった。
私がこのフィルムに涙したのは、カンヌ受賞俳優の強い演技でも、母親の捉えきれない残酷さと愛情でも、強く生きる子供たちの姿でもなく、この映画全体に張り詰める様々な関係である。『ワンダフルライフ』でもの足りなかった、キャメラと人間との関係もこの作品では極めて良好。存在を消すでもなく、かといって積極的に荷担するわけでもないキャメラの位置、これこそが是枝のスタンスだろう。(そして「作家性」とは今日、このキャメラと被写体との距離における倫理観の問題であろう。諏訪敦彦との相違点はこのキャメラと被写体との関係の質の差異に他ならない。)「本物」の役者が出ているか否かとか行った単純な問題を通り越して、「演技」か「素」か、ドキュメンタリーかフィクションか、とかいった問題が馬鹿馬鹿しくなるような、そこにはただただ1本のフィルムが屹立している。ただキャメラが回っているときにのみ、フィルムが映写機に掛けられてまわっているときのみに存在するこのかりそめの共同体が、フレームの枠からはみ出んばかりに濃密に存在している、この存在の豊さが私に涙を催した。キャメラとその前に存在する人々、それらが良い関係を結べた、否、徐々に結んで行く、この時点でこの映画は「命」を吹きこまれた*1のである。
8月24日追記:かなり重要なことを指摘し忘れていた。それは妹を埋めに行った帰りの電車の中で長男と韓英恵が隣り合って座り、呆然としているシーン。ここの窓にはキャメラマンが映りこんでいる。これは映ってしまったのか、あえて映ったのかの判断はもちろん出来ない。しかし、このフィルムを没にせずに使用したということは確かである。ここでハッとしたのは、もちろん上の文脈にある通りキャメラと被写体との濃密な関係である。これは、『M/OTHER』におけるあの鼓動を捉えてしまったマイクと対比をなしている。この映り込みはアクシデントでも何でも無く、当たり前のことなのである。キャメラが寄り添っているいるから。
あと、ちなみに本編以外でも私は涙を流しそうになった。それは買って来たパンフレットのカンヌ映画祭でのスナップショット。キャストと監督が集合してのものである。ここに至り、彼らは完全にフィルムから飛び出してしまったと見紛った。そして柳楽優弥と明の区別はまったく重要ではないことを感じた。

*1:先日、素晴らしい書佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平』(上下)を読み、そこで言及されたいた「映画芸術」誌1999年春号を入手し読んだ。諏訪敦彦による『ワンダフルライフ』評があるのだ。素晴らし文でこのことについてはいずれ言及しようと思っているが、そこでの諏訪敦彦に言葉が「映画に命がふきこまれる瞬間」というものである