誰も知らない、諏訪敦彦、そのほか

先日から、「ものもうす」さんがいろいろ意見を述べてくださり、いつに無く盛況になってきてきて、嬉しい限りなのですが、本名を晒せなんて暴力的なことはHNでずっとやってきている私に言えた義理ではないですが、議論の内容も鑑みて、もう少し人となりを教えてはくれませんでしょうか。この問題は私にとって現在非常に重要な問題であり、このことで議論できる人は誰でも歓迎ですので。もっと建設的な議論もしたいですので。もし良ければ続きは掲示板でやりましょう。
そこまですることも無いと思うんならそれはそれで結構です。ここのダイアリーのタイトルにあるように、基本的には一方通行的な暴力的な場ですから、こういう場所は。
というわけで、↓のコメント欄のつづきを
その前のコメントでも私が述べているとは思いますが、諏訪は独我論的な「私」として「私」を扱っているのでは決して無くて、自我のある「私」の周りには必ず他我が渦巻いていることを承知していて、だからこそ作品の主体である作家としての自分と、映画をそれから開放したい自分というディレンマを問題としているわけだと思います。ここで言う独我論的な「私」としての作家はまさに独裁者のイメージに結びつき、全ての映画監督は多かれ少なかれ独裁者に憧れるというテーゼによって示されるものです。(チャップリンも現場では「独裁者」であったわけですし)
そこで、諏訪は積極的に映画の中に、映像の中に他者を導入していくわけだと思います。もちろん実際以前として作家は存在し、『2/デュオ』も『M/OTHER』も『H story』も「諏訪敦彦作品」として認知されるわけですし(しかし、いささか詭弁的ではありますがこの「他者」には吉田喜重が言うような「私の中の他者」、「他者としての私」というものも含まれています)、これによって全てが解決されるわけではない。むしろこういう手法は毎回毎回が賭けであることは私も経験しました。
どの諏訪の作品もキャメラと俳優との一対一だけのものでは決して無いでしょう。そこにある関係とはある男と女の関係、それを見詰めるキャメラがある。そしてそのキャメラは自分自身と被写体との関係をもつぶさに映しとっていく。キャメラに命があるとでもいうような生々しい幾多の関係がフィルムからは浮かび上がってくるのだと思います。だから、『H story』で突如としてベアトリスを叱責する、撮影者であるシャンプティエの声が聞こえてくるのです。
私は安易に「芸術」とか言う人間はあまり信用できないのですが、貴方の芸術観では諏訪敦彦は芸術家ではないのかもしれません。ですが、私はそういう諏訪敦彦の酷く、脅迫的なまでにストイックなところに共感し、惹かれ、嫉妬するのです。