是枝裕和『幻の光』1995年/日本 をビデオで

どうしても『誰も知らない』との比較というか、同じ監督が撮った過去の作品として観ざるを得なかったのだが、その比較をするまでもなく、それをすればなおのこと、空虚な映画である。
『誰も知らない』のときに述べた、「関係」というものがここでは空虚にしか映らない。キャメラと被写体との距離はいかにも中途半端で、とうとうこの作品が終わるまで、その距離をつかみきれないままであった。それは一見慎ましく、美しく、大きな「静と動」を写し取ったかにみえるロングショットの数々がどこまでも虚しいという事実が全てを物語っている。
人間同士の関係もどうだろうか。序盤の江角マキコ浅野忠信との良好な関係はまずまず窺い知れるにしても、再婚して能登に行ってからのそれは最悪といっても良かろう。もちろん突如理由もわからず自殺した夫を思ったまま再婚する妻の心のわだかまりとでもいうような、そういった演出上の配慮であろうが、それでも実の母と息子との関係にいたっても、他の人間と同様まったく見られない。決して必要以上によっていかないキャメラは、そのまま江角マキコとそのほかの人々との距離を表しているようにみえる。
いまこの文章を書きながら、少し納得してきた。この映画は最初から、この空虚感を狙った作品であったのだろう。そして、江角マキコのかかえる問題の前には、聖なる美しさが漲っているであろうシーンの数々も虚しく映したのだろう。そのための距離がロングショットだったのだろう。常に遠巻きから見詰めている様にみえて、実はキャメラは常に江角マキコと共に寄り添っていたのだろう。決してこのキャメラ江角マキコ以外の人間の傍にはつかないのである。