王家衛『2046』2004年/香港 @OSシネフェニックス

例えば、レンズを使って画面を歪めることや、スローモーションを使用することは、サム・ペキンパーのそれがそうであるように、物語に、つまりみている我々に「感情」などの不可視の要素をわかりやすく伝えるためのレトリックや、スクリーン上の人物のエモーションを補助的に表現するためのものではなくて、作家王家衛のエモーションの発露であり、それと同時にクリストファー・ドイルのそれの発露でもあるということはもはや云うまでもないことであろうが、ここまで内省的なフィルムになると、そのしっとりとしたエモーションの発露たるイマージュはただただ美しいばかりで、そのほかのなにものも、私の中には生まれてこない、まったき空虚。「2046」という全くもって恣意的な数字の列をタイトルに冠したこのフィクションの美しく、耐えられない軽さ。それがこの作品である。
トニー・レオンが根城にしているホテルの屋上。そのネオンはいつも光りを失っている。その傍らの場所を当初私は、女性しか足を踏み入れることの出来ない聖なる場所に見えた。その証拠にそこに佇む女性の虚ろな美しさは男性の侵食を禁じる類のものであるからである。しかしやがてそこにトニー・レオンが侵入してくる。このあたりがターニングポイントであろう、その後トニーはいっそう内省的に、過去に縛られつづけながらフィクションとしての未来を描く。そして、それは「結末が悲しすぎる」のである。
この空虚さは『イノセンス』を安くなぞったような「2046」のCGによる場面の質量が全くない、耐えがたいほど軽い画面が全てを表すだろう。一応断っておくと、無論この「軽さ」はこのフィルムにおける美点である。