ニコラス・レイ/ヴィム・ヴェンダース『ニックス・ムービー/水上の稲妻』西ドイツ、1980年 をビデオで

このフィルムに対して、そもそも映画においてドキュメンタリーとフィクションとの境目など無いだとか、何が現実で何がフィクションであるとか、すべてはフィクションであるとか、すべてはドキュメンタリーであるとか、そういった類の議論、正しい議論は無意味であるとまでは私には言えないまでも、ただただ虚しく響くことは否定できない。
ここのフィルムに映し出されている老いたニックの、病んでいく、そして死にゆく、その生々しい姿は、どのようなテクストに載せ、どのような芝居をつけ、どのように編集しようが、絶対的な真実であり、そのイメージの前にはただただ息を呑むしかない。という感動的で正しい私の意見も、この映画でヴィムとニックが「しようとしたこと」のほんの一部しか言い表せていないこともまた事実である。
ヴィムとニックがあくまでもフィクションとその文法にこだわったという事実は、フィクションを突き詰めていった先に零れ落ちる、真にドキュメンタリー的、つまり映画的なイメージを獲得するための方法論であるという言い方もやはり乱暴で、片手落ちであろう。
生きること、映画を撮ること、そしてある者は死にゆくこと。ここで区別できないのは映画とそれ以外である。生きることと映画を撮ること、私の生の中において、映画という部分だけを抽象することは出来ない。これは悲痛である。感動的である。映画を撮る歓びである、映画を観る快楽である。
しかしそこには覗き見てきな窃視的な、快楽、背徳的な歓びが存することも同時に自覚的であることにも目を配らなければならない。
ヴェンダースは死にゆくニックを観察する道具としてキャメラを廻すことに対して、一種の罪悪感をもっている。その罪悪感は一度でもキャメラであろうとカメラであろうと、それを持ったことのあるものならばわかる筈だ。キャメラとは斯くも残酷なものか、いや、「残酷」と言う表現は人間的過ぎる、非人間的な機械である。キャメラには本質的に人間的な温かみのある視線というものは存在しない。観たく無いものもしっかりと捉える。
ニックはここでは被写体であるが同時にこの作品の監督でもあり、偉大な映画監督であった。その彼がキャメラの残酷性を知っていないはずが無い。だから、葛藤は表には出さずに、直視を強いる。それが映画監督の定めであると知っているのだろう。被写体にまわったからといってそれを拒否するのは美学に反する行為だろう。自己否定だろう。しばしば映画史において映画監督という職業につくものが同時に被写体としても優れている例が少なくないことの一つの理由ではないだろうか。
おそらく、このフィルムの体裁をあくまでフィクションという枠でやることにこだわったのは、ヴェンダースの畏れであろう。つまりこれがヴェンダースの生き方であり、レイの生き方であり、二人の関係である。ヴィムは直視するのを畏れ一個フィクションというバイアスを掛けた、が、そのバイアスはいとも簡単に、自分たちが取ろうとしている映画自身がつきぬけてくる。ロラン・バルトが写真のノエマは「かつて・そこに・あった」であると述べていたが*1、映画のノエマは「いま・そこの・ある」であろう。このことがフィルムにおいて、私を突き刺してくるプンクトゥムであろう。今私がこの映像を観ているとき、そのときニックは生きている。私も同時にこの作品の中に参加し、生きているのだ。

*1:ロラン・バルト『明るい部屋』参照

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書