ジョン・カーペンター『マウス・オブ・マッドネス』1994年、アメリカ をビデオで

ジョン・カーペンターの作品において主人公は「逃げ場なし」の状況下にしばしば置かれる。それは多くの場合物理的、地理的に逃げ場なしの状況になる。その状況に対してカート・ラッセルジェームズ・ウッズはどんどんと(元から信用していない)仲間を失い、それでも果敢にほとんど本能的に孤独な戦いを挑むのである。逃げ場があるか、助かるか、生き残れるか、が問題なのではなく、戦うことに意味があるのである。
ところが本作におけるサム・ニールはどうか。彼が陥った逃げ場なしの状況は、本当に恐ろしい。結局のところこの物語の中で、彼が精神病棟から1歩でも外にでたのかさえも判断しかねるほど、かれは心理的に閉じ込められている状況になる。この映画で最も恐ろしいのは、いつもながら過ぎたることなく程よサービスされたモンスターの姿でも、人々の狂気でも、現実と虚偽との区別がつかなくなった世界でもなく、それらの「逃げ場なし」に対して、決して戦いを挑むことなく、その逃げ場なしの状況を拒みつづけるサム・ニールの姿勢であり、そしてなによりもこの映画で恐ろしいのは遂にそれらの恐怖に対して逃げ惑うばかりでなにも出来なかったという「彼の」結末が、メタ化されたこの映画自身に対しての筆舌に尽くしがたいあの泣き笑いと共に示され、この作品は幕を下ろすということである。あの以下にも予想がつきそうなラストシーンにおいて、それでも私が戦慄したのは、かれの笑い声とメタル調の(カーペンター印のついた)テーマ曲によってである。
この作品があのように必死にメタ化したのはこの作品と登場人物の構造だけではなく、畢竟映画というシステムそのもの、およそすべての表現形式そのもの、言語、記号、体系を持つものすべてのもである。
そしてそのメタ的な閉塞感は、まさに「逃げ場なし」で、あのラストシーンにおいて、フィルム的な結末を迎えるわけであるが、それはいささかもこの物語の結末ではない。ここはまさに折り返し点に過ぎないのであって、並の作品ならば夢オチ的な括弧に入れられた「終」を迎え、「ハイ、現実と虚偽の区別なんてあいまいなものですね。今あなたがいる現実が現実であることを証明することは出来ませんね」的な含みを持たして、我々はざわめくのだが、カーペンターはその先を描いてしまった。描かないことによって描いてしまった。あの折り返し点以降は描けない、不可視、表象不能の地平にある。「あとは、映像と音を越えたところで起こった」というやつだ。彼がこの『マウス・オブ・マッドネス』を最期まで見届けた瞬間それはメタ構造の臨界点を迎えるだろう。太陽を直接見ることが出来ない様に、原子爆弾を直接見ることが出来ない様に、自分自身の姿を直接見ることが出来ない様に、見ることができないものを観てしまうような瞬間。それはもはやヴィジュアルではない。この映画の先にはそのような臨界点が待っている。なんと恐ろしくも、心踊る映画であろうか。
大傑作、大傑作。

マウス・オブ・マッドネス<dts版> [DVD]

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