鈴木清順『東京流れ者』日本、1966年 をビデオで

鈴木清順のフィルムをして平面的であり、その特性ゆえの比喩ではないどんでん返しそのものをフィルムで成したという指摘はまさにその通りであると思うが、それよりも私の感覚に訴えてくる特性は、特にこのフィルムでは顕著に見受けられるのだが、それは奥行きの「無さ」や空間的時間的脈絡の「無さ」や、色彩や装飾の抽象性といったなにかが「無い」ことによる驚きではなく、それによって獲得された無限とでもいうべきフィルムの広がりである。
しばしば下手な芝居と撮影と編集によって、まるでフレームの外にはなにも「世界」とでもいうべきものが無いと感じられるような種類のフィルムがあるのだが、そういったものとは全く異なったレヴェルで清順のこの種のフィルム的世界には外部というものが無い、完全に無いのである。しかしながらその外部の無さや場所の匿名性故に、それは無限なのである。下手なフィルムの場合全く無いのではなく、ただ「有る」に対して相対的に「無い」に過ぎないのであって、絶対的に「無い」のではない。だから清順の抽象性というのも具体の対義語としての抽象ではない。絶対的なものなのである。
だから例えば、雪の中まむしの殺し屋が何故かぶら下がっている赤提灯を払い、哲はこちらもまた何故か線路の脇に突っ立っている赤いポストのそばを歩き去り、迫り来る汽車を背後にまむしと自分との距離を測るとちょうど射程距離の十米の地点の枕木だけ赤いという、一見なかなか丁寧な配置をただ記号的配置と真に受けるだけではつまらない。これらの赤色がなにかを意味していると受け取るとこの絶対的な抽象をただの抽象に成り下げてしまうであろう。おそらくこの赤という色も心理学的、美学的な列記とした意図のもとに読み取るよりも、ただただ絶対的な感覚としてこの一連の赤色が我々の脳裏に深く刻み付けられれば、我々の血の色が青色であっても一向に構わないのである。

東京流れ者 [DVD]

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