フリッツ・ラング『M』ドイツ、1931年 をビデオで

久しぶりにきちんとしたどころから傑作のモノクロ映画を観て、思うのは画面に対する意気込みとでも言おうか、カラーや感度の高いフィルムでは考えられないくらいに陰影がカラフルであるということだ。それでいて(当然のことではあるが)モノクロであると言うことを一切に苦にも制約にも感じられない。
しかしそういった一種ノスタルジアを含んでいるような感慨よりも重要なのは、これらの陰影による色彩、具体的に言うと影を巧みに使った演出:鳩時計の不気味に美しい陰やポスターに移る犯人の横顔の陰がとことん素晴らしく、場違いではないようなリアリティ、作品世界の構築であろう。不可能とは言わないし、私もそれを成したいという野望を少なからず持っているが、このような演出というのはもはや「古典的」なものという了解があり、パロディとしてでしか成し得ないのではないかと思う。現在の映画とはリアリズムが「異なっている」。
ドヤでのシーンのキャメラワークには正直度肝を抜かれた。ここでのワンシーンワンショットといい、警察と犯罪組織との平行モンタージュといい、その技術水準の高さもさることながら、そこから透けて見える意思がおそろしい。平行モンタージュによって対位法的に示される2つの共通の目的を持った集団はここにおいて等価に置かれる。だからといってそれが善か悪かといった価値判断を決してしない。それは犯罪組織によって行われる人民裁判においても同様で、ここでも裁く側と裁かれる側を対位法的に見詰めながらやはり価値判断を宙吊りにする。殺人犯、犯罪組織、警察の三角関係が、構造的にその位置をずらしながら、その価値の危うさと、その危うさから生じる不安を同時に炙り出す。一向に打開しない事件の我々にとっての救世主であるアンチヒーローの集団、彼らが犯人を追いつめたときそれを救うヒーローとしての警察。そしてそれらのきっかけはあの美しいプロローグを打ち破る一つのMである。
その結果わが身を守れるのは自分だけという、これもまた犯人の戦慄すべき科白、「自分が自分を追い駆け、自分が自分から逃げる」という無間地獄とでもいうべき状態。それが万人の万人に対する戦い、それを防ぐ契約であるところの法もその本質からして危ういという戦慄すべき現状を70年以上前に既に見抜いていた。