ガス・ヴァン・サント『エレファント』アメリカ、2003年 をビデオで

映像というものは、その本質は一切の価値判断を含まず、あくまでもレンズの前に繰り広げられる運動をフラットに写し取ったものであり、非人間的である。が、それはあくまでも本質であり、というよりもイデア的なものであり、ここの映像一つ一つを取ってみると、そのような完全なフラットなものなどあり得ないといわざるを得ない。しかしその「フラットではない部分」のほとんどは、その映像の外部からやってきて付与されたものであるともいえる。映像のフラットではない部分は捏造である。それこそが従来の意味での「演出」と呼ばれる行為であろう。
しかし、今や「演出」とは映像をフラットに保たせるための、非行為とでもいうべき行為である。この行為と非行為との狭間での葛藤こそが映画そのものである。
ガス・ヴァン・サントの『エレファント』は件の出来事をフラットに捉えようとしている。まずそのためには複数の視点を置くこと、複数の物語を配置すること、それらのパーツをキャメラの前においてフラットに捉えられている。映像や必要以上に「美しい」という価値判断はこの作品空間の中ではフラットであるのでさほど問題ではない。それは外部から覗いているから美しいのである。
そのフラットさのなかで炙り出されるのは、彼ら彼女らのごく些細なそれでも愛しい日常などでは勿論なく、彼ら彼女らがそれぞれ違う人間であるということである。ジョンはあの眼鏡の女ではないし、女3人グループのそれぞれはやはり同一人物ではないし、ある中の父親を持つ少年とカメラを構える少年も違う。
彼ら一人一人の差異が立ち現れる。誰が悪いか、誰が真の意味での犠牲者かなどということは映像は示さないが、彼らの間には差異があり、別々者として撃ち、あるいは撃たれ、ある者はニアミスで助かり、ある者は最後に見つかるという光景が立ち現れる。これは視点や物語を複数おいて重層化したために起こるのではなく、ただ映像があることによってのみ立ち現れる。ただ別々の出来事が別々の人間に起こったという差異だけを映画は真の意味で表現することが出来る。そしてこの差異を生み出す場を不可視的に示そうとしたのであろう。その場とはハイスクールやそれぞれの家庭といった差異ではなく、それらを含めたすべての差異を生み出す場である。それが映画がこの「世界」という場を表現する唯一の方法かもしれない。
さて、Bennyという黒人が登場する。彼の存在が私の頭をもたげてならない。もちろんその理由は彼もまた不幸に銃弾の餌食になるからではない。最後のほうで突然闖入してくる彼は、このフラットな映画において、極めて特権的な位置に属しているといえるだろう。皆が平等に物語や視点を背負い交錯し一時漸近線のように互いが接近し弾けたのに比べて、彼はいかなる物語も背負わず、いかなる言葉も紡がず、突然フィルム上に存在を始め、撃たれる。なのに何故か固有名を与えられた。彼の存在によって、他のすべての登場人物がいかにも俗物に思えてくる。
彼の存在はもはやこの『エレファント』という作品そのものである。

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