フェデリコ・フェリーニ『81/2』イタリア、1963年 をビデオで

このフィルムが「悪夢的」なのは夢のイメージと現実のイメージが交錯し、その境界線が不明瞭になる狂気とかそういったものではなくて、ここに示されるイメージの悪夢性そのものによるものであろう。
序盤でのパーティーのシーンなどに観られるモブシーンの処理の見事さと、その見事さそのものから発せられる禍禍しさ。完璧を志向して構築された映画的世界を作り上げる、いわば設計図にしたがってそのための材料を製造する行程が撮影であるというような、いわゆる「ヒッチコック的」な映画手法のフェリーニは、多くの登場人物が交錯しそれぞれ勝手なことを喋り、動く登場人物とそれを極めて滑らかなキャメラワークで捉えている。
この混沌が計算され構築されたものであるということが、キャメラワークから、照明の動きから透けて見えれば見えるほど、つまり見事であればあるほど、秩序と混沌とが同居する。秩序を持って混沌を支配せんとしている。そう意味ではすべての映画のすべてのシーンは狂気を孕んでいるともいえる。そういった「完璧な世界」を構築せんとする作家の意思もある種独裁的である。こういった古典的な「名作」を観るにつけ、すべての映画監督は独裁者に憧れるという命題を思い起こし、眩暈を感じる。
そういった意味で狂気のフィルムだ。