ヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』スペイン、1973年 をビデオで

それぞれが浮遊感をもって独立に漂っているこの映像群をひとつに繋ぎとめている、未知なる「死」。しかしここではタナトスとかいうフロイトの用語は一切不用で、あくまで未知なるものへの畏れと憧れ。無垢なる好奇心という「良くも」「悪くも」ある「精霊」的な感覚。このフィルムもあのフランケンシュタインの様に、一個の精霊である。
エリセのような映画を観ると、どんなに論理だてて語ってみても、それもやはり一個のフィクションに過ぎず、この体験をつぶさに描写しようと試みれば試みるほど、自分との対話に陥ってしまう。結局自分がこの作品を好きだと言うことを回りくどく宣言するだけの、批評とは程遠い態度に陥ってしまう。沈黙こそが最高の美徳であるなと思わせる。この種の映画が私にとっての語りがたい映画であろう。
おそらくは、語彙が足りないだけなのかもしれない。つまり訓練を重ねればそれなりに饒舌に語ってみせることも出来るだろう。しかし、そうなたときに見えなくなっているものは必ずある。
ある種の映画は観ている傍から言葉があふれてくる。ある種の映画は沈黙を余儀なくされる。
映像が何かを語るのではなく、映像自体が既に語りであり、非-語りである。
結局この映画についてほとんど何も語っていないに等しい文章を連ねる始末。

(追記)が、少し間をおいて考えてみるに、その一見それぞれが浮遊して感じられるほどの強度を持った映像群は、例えば(先日に引き続きの引き合いでなんだが)ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』の序盤の素晴らしいバラバラさに比べても、ある種の秩序があることは確かだ。作品として帰納的にファーストカットから順番に観て行くとそれまでの浮遊感がそれはそれとして確保されつつも(これはひとえに説話の力ではなく映像の力だろう)、ある瞬間からそれまでの映像にあるパースペクティブが与えられ、そこから見ると綺麗に整列していることがわかるだろう。それはあの脱走して来た男の「死」によってそれまで暗示的に示されつづけたフランケンシュタインに象徴されるような模擬的な「死」は意味を持つ。それこそ、時計の歯車のようなミツバチ達のごとく、それぞれが機能する。その始まりを告げるのが父親の美しい音色を奏でる懐中時計であることは無論当然のことであろう。
追記前の文章はやはりさすがに盲目的である。しかし、追記のような分析によって捨てられてしまった細部に後ろめたさもやはり残る。

ミツバチのささやき [DVD]

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