ジョージ・A・ロメロ『ランド・オブ・ザ・デッド』アメリカ、2005年 @MOVIX六甲

ゾンビ対人間の構図が常に何かのメタファーであるということは監督本人の言も含めて散々語られてきたことであるし、ここにみてとれる「9.11以降」の光景は先日の『宇宙戦争』の方がより非倫理的な形、映画的な形で提出されていたので、あまり語ることが無いような気もする。
もはやゾンビというものは未知なる恐怖ではなくなっていて、獣の一種としてそこにあるような気がする。そして、今までのロメロ純正リビングデッドシリーズの中で、最も人間とゾンビとの境界がはっきりしている要に思われる。これがイスラム社会とアメリカ社会との対立のメタファーと素直に捉えるなら、このフィルムではそれらは決して相容れないものとして、横たわっている。劇中でゾンビ化する人間が主要なキャラクターではチョロ1人だけだし、ゾンビと人間との境界面の薄さ、危うさというものが希薄である。
ゾンビ三作目の『死霊のえじき』から登場していた、知性の萌芽が見られるゾンビも登場する。しかしからの知性は悲しみしか生まない。結局どれだけ知性を得ても人間とゾンビは決して相容れないということが彼の最大の悲しみであり、人間への「復讐」にも虚しき悲しみの色が混じる。そしてこのように読み取れるのは我々がフィルム上のゾンビを動物ドキュメンタリーのように眺めているからに他ならない。もはやどれだけ人肉を貪ろうと、それは彼らの生活として存在しているようだ。
とはいえ、ゾンビは素晴らしい。花火にみとれるゾンビは美しい。もはや花火から目を離し、目の前の餌に気付くゾンビも美しい。

(追記)忘れていた、これだけは言及しておかなくては。
あの素晴らしいシーン。というか、パンフレットの中原昌也と篠崎誠の対談ですべて私の雑感は語り尽くされているのが、なかなか筆が進まない理由でもあるのだが、備忘録として触れておく。
ビッグダディ」(劇中で名前を言ってたっけ?)がブッチャーマンのゾンビにその包丁でここを壊せと指示する。そして穴が開く。そこをビッグダディが覗きこむ。すると「バーン!」とゾンビが眼前に現れる。それにビッグダディが驚く。
これは本当に驚きだ。ゾンビにゾンビが驚く。やはり、ゾンビがゾンビでなくなってきているというか…。彼らを集合名詞として「ゾンビ」と呼ぶのが不可能になっていて、「個性」とかいうと胡散臭いが、少なくともビッグダディには「アイデンティティ」と呼べるような何かがあり、そのような彼を「ゾンビ」と一般的に呼ぶのは、「人間」と大雑把にこのフィルムに出ている非ゾンビを呼んでしまうのと同じくらい乱暴なことであるという事態に至っているということだろう。
そして、このような印象を抱くに至るには、今までのゾンビの描き方との決定的な違い、パンフの対談で指摘されていた言葉でいうと「ゾンビの視点」の挿入によって、ゾンビが分析的に描かれていて、もはや恐怖の対象ではなくなっているという事態が大きいと思う。