デビッド・クローネンバーグ『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』カナダ/イギリス、2002年 をビデオで

(9月10日記入)
観終わったときは大したことないなと思って、何をここに記そうか迷っていて(当然のことながら「面白い」と思った映画、「面白く」なくても1箇所でも偏執狂的に気になった個所があった映画は言葉があふれてくる)、結局何も記さないまま放置しておこうと思ったのだが、丸一日経ち、じわじわとこの映画が私に染み込んできた。
最も印象的だったシーンは母親が殺され埋められた(と信じている)畑の上で、少年としての主人公が寝そべって家を飛び出した一夜を過ごす場面である。このねそべっている格好はその下に母親が埋まっているという妄想とも連関して胎内回帰を想起させずにはいられない。これは前作の『イグジステンズ』でも見られた格好である。この横向けに軽く膝を抱えるような格好を彼は何度か取っている、無論ベッドで寝ているときは必ずこの体勢である。これはフィルム自体が永劫回帰にも似たループ状の胎内回帰の過程であることを暗示しているのが最後に分かるであろう。
ここで少年の母親への屈折した愛情のため、娼婦のような母親の一面を知りそれを母親ではないと信じ、自分の知っている母親は殺されたのだ、と解釈して…云々というような物語の解釈をするつもりはないが、こうした「謎解き」自体がこの映画の物語の進行とあいまって、一風変わった探偵物語の様相を呈しているということもまた事実である。
映画という表現でこの物語を語るとき、この主人公は、主体的な体験者であり、同時に探偵的な目撃者であり、既に過去の出来事としてそのことを知っている予言者でもある。その三者がまさに三位一体となっている。
「精神異常者の視点」というエクスキューズを借りて、このフィルムでは我々は見ている映像が真か偽かの判断を出来ないようにしている、と同時に過去と現在も渾然一体となって、回想することは、今ここで再び体験することであるということを示している。もちろん、こういった演出には既視感が否めなく、特別素晴らしいというものでもないだろう。しかしその光景を必死に文字として再び主人公は小さな手帳に書き留め出す。記録する。このことによって記憶を外部化することによって、初めて正史として認めることが出来るようになるのだろう。しかし彼はそれを破り捨てる。施設の女性さえもあの娼婦に見えたからだ、しかし彼女を殺したという記憶を思いだした瞬間、その彼女は実は母親そのものであったことを「思い出す」。つまりこの再体験のクライマックスに至るまで完全に忘れていたといういことであろう。この「忘れること」によって彼はまた書き留めること、思い出すことをこれから先も続けるであろうし、そして再びラストで、「客観的に(必ずしもこの言葉は適切ではないと思うが)」目撃する対象だった少年としての私と融合するという回帰を繰り返すだろう。

スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする [DVD]

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