ティム・バートン『チャーリーとチョコレート工場』アメリカ、2005年 @神戸国際松竹

(9月12日記入)
スピルバーグを考えるときなど特にそうなのだが、「ハリウッド映画」を監督の名のもとに観るとき、良く分からない事態に陥ってしまうことがある。ある固有名のもとにまとめあがられたフィルモグラフィの物語に共通項を見出そうとすると、罠にはまってしまうだろう。物語はやはり映画のものではないのだろうか。
このフィルムも間違いなくティム・バートンのものである。最初にエルフマンの音楽と共に"a Tim Burton Film"といタイトルが入っていなくても、即座に、ああ、これはティム・バートンの映画だなと分かる。ティム・バートン的世界で満たされた、気持ち悪いくらいに整った映画で、むしろ驚きはなく、安心してティム・バートンの世界を体験出来るだろう。しかしながら、それはあくまでも意匠であってその本質ではないのではないか。という疑問が常にこの手の作品に付きまとってくる。
彼は『ビッグ・フィッシュ』を撮ってしまった。「ティム・バートン的世界」を強調するでも放棄するでもなく、それを慎ましく処理しながら、ただ老夫婦がバスタブに沈むだけの素晴らしいショットを収めてしまった。おそらく彼はその素晴らしき趣味的世界を描かなくてもその本質だけで映画を撮れるのではないのかと思う。
しかし、あの『ビッグ・フィッシュ』のあとに平気で堂々とこのフィルムを撮りあげる。『ビッグ・フィッシュ』が忘れられない私に、「あんなものを撮ってしまって次はどう来るのか?!」と勝手に期待する私に、「ほら」と言ってこのフィルムをみせる。これがハリウッドの面白くて恐ろしい所以なのか。
それでも、チャーリー少年とその家族との一連のシーンは決してかつてのティム・バートンは撮っていなかったと言いたい。これは『ビッグ・フィッシュ』以降の映像であると言いたい。誕生日のチョコレートを家族に分けるとき、それを見詰める両親の表情を捉えたショットはかつてのバートン作品には見られなかった輝きがあると言いたい。
ウィリー・ウォンカと歯科医であるその父親が、それぞれ手袋をギュッギュと鳴らしながら和解の抱擁をするシーンは、決してハサミ男と金髪の美少女とでは出来なかっただろう。
これらの要素がはたして雇われ監督がただ愚直に物語、脚本を映像化しただけのものなのか、つまり今までそういうものを撮らなかったのはただそういう脚本ではなかったからなのか、今回はそういう曲品だったからそうなのか、それともやはりひとえにバートンの資質の賜物であるのか。それがよくわからん。
私に出来るのは、ただスクリーンに映っているものを信じるだけである。おそらく、フィルムだけに、スクリーンだけに、テレビモニターだけに注目していればその答えは容易に出るのだろう。中途半端な作家主義、作家崇拝、ティム・バートンという固有名とそれに伴う「イメージ」によって、映画が見えなくなっているのだ。