ユルグ・ブットゲライト『死の王』ドイツ、1989年 をビデオで

思いのほか「映画」に対しての嗜好が強いというか、野心的というか。「月曜日」、一人目の男が自殺するまでの時間の経過を何回転も360°パンでもって、ワンカットで男が様々な生活の一部を演じるシーンで、「おや?」と思ったのだが、特に好感が持てたのが、その際に男がキャメラの背後を移動している影が見切れてしまったときで(男はこの部屋で生活しているのだから影が映っただけではNGとはいえなくもないが、見切れたのは1回だけだったので)、この指紋が逆にこの場面を考えを持って映画として撮影している意思が透けて見えて、逆に好感が持てたし、その後も「これはひょっとしたら…」という気分で見ることが出来た。
すると案の定、また別の男が妻を殺したことを告白する場面では、ゴダールの『ウィークエンド』の車が事故炎上する場面を思わせるフィルムが引っかかったように乱れ、話のテンションがあがる男とその口調も歪み出す。しかし、この演出はこのフィルムがフィクションに過ぎないということを告発するものではない。テンションの乱れに呼応するように画面や音声が乱れようが被写体は喋りつづける。これは映像に過ぎない、今私が見ているものはいかに不快のものであろうとも、いかに美しいものであろうとも、あの腐敗が進んで行く死体からは腐臭を感じることが出来ないということは示すが、これがフィクションかいなかは語れない。映画の強さであり弱点かもしれない。「正しい映像などない、ただの映像があるだけだ」というゴダールの言葉をやはり思い出す。
そう考えながらタイプしているとこれはある意味『ウィークエンド』のリメイクである面もあるのではないかと思う。何回転もするパンもあった。
ステディカムを装着し、ライブ会場で無差別殺人する女性のシークエンスも、やはり映画に対してい自覚的である。まずこの章が誰かが見ているフィルムであるという導入、そしてキャメラを構えながら正しい意味での主観ショットで銃をぶっ放していく。キャメラと銃はいとこのような存在で、そのいとこ同士が近親相姦して産んだ子がマレイの写真銃だとすれば、そのいとこ同士による共同作業がこれだろう。
そして主題とでもいうべき、腐乱がどんどん進行していく死体。これはヤン・シュヴァンクマイエルの数秒の短編『フローラ』を思い起こすが、どうだろうか。
結構色々なリファレンスが付けられる映画であった。つまり、この映画は映画であることを欲している。魅惑的な「死」考察だけではなく、それを映画でどのように可能かも考えているように思った。映画が死を描写することへの考察も(不充分ともいえなくはないが)あり、なかなか面白かった。

死の王 [DVD]

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