ピーター・ジャクソン『ブレインデッド』ニュージーランド、1992年 をビデオで

1992年という制作年から鑑みても、「スプラッターホラー」さえもやがては飽和を迎える。スプラッターの最後は華々しくミンチとなってどろどろと散りゆく。
あの、我々がどれだけ気持ち良くスカッと殺されるのかだけを期待させるためのキャラクター筆頭である叔父(「悪い奴」はこの映画において殺されるために登場し、殺されるために嫌なことをする)の珠玉の台詞「俺が読んだマンガではこうしてたぞ!」は、このフィルムの人々はつまり、「ゾンビ」を知っているのだ。だから、ゾンビ化した母親が町をうろついても「汚いモノがいる」程度にしか取り合わない。ゾンビ達もゾンビ映画なのなんたるかを気遣っていて、主人公達には安易に噛みつかないし、あの眼鏡の女性もゾンビかが遅延される。
サム・ライミダリオ・アルジェントジョージ・A・ロメロもこのフィルムは通過している。というかかなりのホラー、アクションを通過しているのがわかる。アルジェント的な少年時代のトラウマとその記憶を取り戻すくだりは何の伏線にもなっていなく、唐突に父殺しは母だと断罪する。その件と今回のゾンビは何の関係もないのだ。さらにこの「(笑)」を付けたくなるような「悲劇」の現況であるラットモンキーにしても、早々と被害者である母親が踏み殺している。もはや原因は関係ない。目の前で増殖していること事態が重要であって、サルがどうしたというのは何の意味も持たない。
どちらかというとタランティーノ的な手付きで、それでも会話劇になることは避けながら紡いでいる。サム・ライミがかつて『死霊のはらわた』シリーズで実証した、「過剰さはギャグになる」というテーゼを嬉々として実行する。過剰さは数の過剰さであり、量の過剰さである。人とゾンビだけではなく、何の関係もないネズミにすら主観ショットを与えているのだ。
このネズミの主観ショットはサム・ライミへの目配せだろうが、特に序盤で観られたズームアウトは香港映画で観られるそれに近い。つまりキューブリック的なズームアウトによる場面状況を見せる順番の制御とかではなく(この映画は何度も使用しているもののズームアウトによってなにも画的に説明しようとはしない)、パッションである。しかもそれは、被写体やキャメラマンのそれではなく、このフィルムそのもののパッションである。
なんか書けば書くほどつまらなくなって来る気がしてきた。スプラッター映画の「萌え要素」を過剰に凝縮させた映画といえば観念的には理解できるだろう。しかしやはり私はそういう構造分析よりもネズミの主観ショットを静かにニタニタしながら推したい。

ブレインデッド [DVD]

ブレインデッド [DVD]