ドン・シーゲル『マンハッタン無宿』アメリカ、1968年 をビデオで

これが『ダーティハリー』の一篇だといわれてもどこか納得できるような気もするし、やはりちょっと待てよというような差異も認められる。
冒頭の「インディアン」との1件がこれは西部劇であると悲痛に叫んでいるような気もするが、カウボーイハットを被ったままヘリで摩天楼へ乗込む姿の妙さは、イーストウッドというキャラクターがどこへいっても浮いてしまう存在であるという、西部劇や現代劇を超えた映画そのものの問題である。西部劇的な人物が現代のニューヨークでその違和感を、古き良き時代は去ったと悲しむフィルムでは全然なくて、フィルムに映し出されたイーストウッド個人がどこまでもずれているのである。
だから、クライマックスののスピード感あふれるバイクでのチェイスシーンも、カウボーイが馬を鉄の馬に乗り換えたというより、馬ではない何かとてつもないたまたまそこで拾ったマシンに乗り、階段も乗り越えて疾走するという感じがする。
西部劇的なもののアイロニカルな現代版ではなくて、超越した何かである。
だから暴力は華麗な拳銃のダンスではなく(当然44マグナムは持っていない)、クーガンが発砲する場面はほとんどなくて、血なまぐさく素手で、殴り、殴られる。居場所を突き止められたリンガーマンが、いともあっけなく弾切れになってしまうのは当然である。
ヘリを見るとどうしても『ゾンビ』を思い出すのだが、やはりヘリは逃亡、脱出の乗り物である。クーガンは仕事を彼なりにさっさと始末して、ニューヨークから逃れる。これは『ニューヨーク1997』とも一緒だ。