フランク・ミラー/ロバート・ロドリゲス/(特別監督)クエンティン・タランティーノ『シン・シティ』アメリカ、2005年 @梅田ピカデリー

コントラストをはっきりとさせたモノクロームの映像は、人物と世界とをはっきりと映し出す。とりわけ「傷」にのイメージは神々しく光り輝いている。カットによっては、ミッキー・ロークの顔中に貼りついているバンソウコウが陰影を捨て、フラットに光り輝き、あたかもそこだけフィルムに穴があいて光が覗いているかのようである(ディジタル撮影なのでフィルム撮りではないのだが)。原作を構図のレヴェルまで忠実に守ったというので、おそらく原作コミックの時点でこういう構図があるのだと思うのだが、陰影を強調することによって、自然と影が人格を帯びてくる。少女に忍び寄る巨大な影は、実際にはさして身長も高くないお坊ちゃまが正体であるということを鑑みるまでもなく、このフィルムが極めて豊かなフィクションの空間を構築することに成功していることを示している。ここまでデフォルメされた陰影の戯れを堂々と示すことが出来る映画は最近ないのではないか。眼鏡だけが白く光っている猟奇的な少年(しかも演じるのは『ロード・オブ・ザ・リング』のイライジャ・ウッドである!)などギャグではなく堂々と示すことが出来るのは大したものである。血液は白く輝き、黄色い化物は体液まで黄色いのは、それはただの血液ではなく、感情のほとばしりとでもいうべき一つの言葉であって、スプラッターとは全く違うものに昇華されている。ここでは暴力とその結果の死や傷は一つの言葉である。これを使わねば彼らは、そしてこのフィルムは不可能なのである。枢機卿や政治家や警察官や娼婦や殺し屋たちは共通の言語でこのフィルムにおいて平等にコミュニケートしている。三つほどの物語が共通部分をちらりと見せながらも、1つのフィルムとして決まっているのは共通の言語によって濃密なコミュニケーションが成功しているからである。