ジョナサン・カウエット『ターネーション』アメリカ、2004年 @梅田ガーデンシネマ

これが監督の自作自演による、ホームドラマであることをどこまで考慮に入れるべきなのだろうか。この作品の大半は映像にエフェクトが加えられたり、増殖されたり、反復されたりと、フィルターを1枚通している。我々はこの映像の大半を1枚のフィルター越しにしか観ることが出来ない。我々にしっかりと見据えさせることを拒否しているのかとさえ思わせる。それが自作自演に由来する一種の照れ隠しなのか、純粋に我々を眠くさせないための技法なのか計りかねる。が、どちらにしてもクライマックスであろう、リチウムを過剰摂取して脳に障害をきたした母親と祖父との3人でいるときの映像がむやみに加工を加えることなくじっくりと尺を取っているところをみると、やはり緩急をつけるための「フリ」としてそれまでの急ぎ足な映像があるのではないかと勘ぐってしまう。
しかし同時に、やはりこの作品そのものがこの作者自身と今だ未分な状態にあって、あくまでも編集の過程でもその編集技法(決して高度なものではなくクリック1つで感覚的に出来てしまうようなものである)が作者の感情表現そのものになっているのだろうとも思う。これは個人映像の美徳の1つなのであろうか。それはどうも私には全面的には賛同しかねる部分がある。というのも、この時点だとこの主人公兼監督にとって映像というものが極めて貧しいものにしかならないからである。おそらくこの作品によって、状況はなにも変化はないだろう(それはそれでよいのだが…)。一方的過ぎて映像との対話が希薄である。自分が何を撮影しているのかを全く意識していないのではないだろうか。ただ撮れるものだけを撮って、小手先のエフェクトを駆使して、90数分間我々を客席に座らせて、戦地で泣いている子供をみているような感情を一時的に催させることは可能であろうが、この作品には実はなにも映っていないのとそれほど変わらない事態に陥っているように感じる。これはただ撮影してそれを小気味よく繋げただけのものでいかなる対話もいまだ行われていない。キャメラが何の役割も果たしていない。
この作品はまだ作品にはなっていないのではないか。