デビッド・クローネンバーグ『ビデオドローム』カナダ、1982年 をDVDで

クローネンバーグやポール・ヴァーホーヴェンジョン・カーペンター、そしてジョージ・A・ロメロなどもそうなのだが、彼らのフィルムに共通しているのは、グロテスクでユーモラスな特殊メイクによる見世物的スペクタクルももちろんあるのだが、何よりもテレビモニターについての距離感とでもいおうか、つまりテレビへの態度である。彼らは決して(カーペンターはそうでもないかもしれないが)テレビを映画の下層に位置させてはいない。解像度の低いテレビモニターの映像はフィルムの前では、やや病的に、点の集合体、しかしながら生きている全体と細部とのフラクタルな現象として映し出される。この作品を見ながら、ふとハイビジョンを始めとする、映像のきめ細やかさ、「リアルさ」を日夜追求しているハードにおける映像産業は何を目的としているのか、それを求める我々は何を求めているのか、政策としてアナログ地上波を一掃し、地上波デジタルを普及させる政府は何を目論んでいるのか…と考えてしまった。「リアル」、「実際」により近づける。映像と現実との差をなくすことに国を挙げて躍起になっているのか。今視聴しているハード環境で、十分に(ハード面の映像技術的には)ニュースは伝わっているではないか(そういう意味でハード面の進化にソフト面はついていっているのか、というありがちな疑念は拭いきれない。もしかするとこの映像技術なるものは生物的、原子的どちらにも共通する「核」技術同様に、我々を恐怖させる要素を秘めているのかもしれない、いや、すでにその猛威を奮い始めているのかもしれない…)。
…さて、妄想はこの位にしておいて、映画監督は作品の中に役者としてテレビモニターを登場させる者とさせない者とに分けることが出来る。冒頭で挙げた名前たちはもちろん前者である。解像度の低いテレビモニターは何を映し出しているか、それは括弧で括られた「現実」である。たとえモニターに映っているものがドラマでも映画でもそれは現実として目の前に鎮座している(ヴァーホーヴェンのテレビCM、イーストウッドミスティック・リバーの『ヴァンパイア/最期の聖戦』、カーペンターやロメロにおける海賊電波によるレジスタンス/プロパガンダ放送…)。テレビというメディアは救世主であり、悪魔であるというわけだ。これらはスクリーンに映し出されてはいけないのである。
ひどく抽象的な文章だな。というか、『ビデオドローム』についてほとんど何も語っていない。また改めて、機会があれば書こう…