実相寺昭雄『哥(うた)』日本、1972年 をDVDで

実相寺の構図やレンズやズームや音楽や台詞や肉体はこの上ないほどエモーショナルで雄弁である。実相寺のフィルムは決して登場人物個人の感情により沿ったり、観客の感情を導いたりするのではなく、フィルムそのものが感情を露にしてうねっているようだ。
広角レンズがパンをすると、その画面がゆがんでいることがことさら強調されるし、懐中電灯がレンズを照らせばハレーションを起こし、フィルムは目が眩んでしまう。大胆な構図で、フェテッシュともとれるような執拗なクロースアップで、人間の表情、表情というよりも厳密な表情筋のうごめきを切り取るのも、人間を狂おしい肉機械であるという視点からであろう。
あの次男の台詞のように、この映画もまた幻であるとしたら、何故実相寺は自殺しはらないのか。自殺のフィクション性すらも内包してしまう、この世界とこの映画は、だからこそ『無常』のラストと対を成すようなイメージで絶望をうたう。そういうフィクションである。
それにしても岸田森の素晴らしさよ。「お父さん」というとき、「は」というとき、弁護士仲間に妻の情事を目撃したといわれてススキを手に目を丸くさせて「そうかい」というとき、妻を淫売といわれて笑うとき、そのあと笑いを止めて飢え死にしそうな淳に目を泳がせるときとき、小切手を切るとき、こけしで妻を喜ばせるとき、妻をうまずめと弟に思われその実は自分が不能であることに思いをめぐらすとき、その一挙手一投足で世界が歪む。
そしてその弟という属性を背負わされた、東野英心(当時孝彦)の膨張した顔も歪んでいるし、サングラスをしていること事態がゆがみである。このサングラスはもはや画面を見る限り、そうでもしないと岸田森にかなわないからにみえてしまう。映画的な悪さにおいてはどれほど放蕩を繰り返そうがかなうわけがない。
それに対して篠田三郎のピンと張り詰めた直線ぶりは、直線であればあるほど、それは歪みの根源として機能するだろう。まっすぐであるとは歪みがないという異常な歪みである。
しかし、この世界が歪んでいるのか、この世界の人物が歪んでいるのか、レンズが歪んでいるのか、このフィルムが歪んでいるか。全てが歪んでいるといえばそれまでだが、それらの歪みを分析的にみると、そこにはもはや歪みは見つけることは出来ないだろう。それぞれの歪みは必然的に身分なものであって、全体としてのゆがみがフラクタルなかたちで。様々な要素で、「現れ」として我々の網膜に焼きつく。その網膜が歪んでいるかどうか問うことはもはや愚問であろう。

哥(うた) [DVD]

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