瀬々敬久『ユダ』日本、2004年 をDVDで

DVで撮られた映画の中で最も良い作品のひとつである。DVでしか撮れない最もよい作品のひとつである。
DVというメディアで映画を撮るということに、物語を通して格闘している映画は、案外今までほとんど全く無かったのではないか。
DVで撮られた映画のほとんどが、ただ35mm映画の劣化コピーにしかなっていないのを自主映画、商業作品問わず目の当たりにしてきた中で、逆にこの『ユダ』のような映画が何故今まで日本に無かったのだろうとさえ思う。
DVの映像に付きまとう「臭い」とでもいうべきもの、それは「個人的」、「パーソナル」な視点である。これはDVによる映像の本質なのか、それとも社会的に成り立った共時的なものなのか断定はしかねるが、やはり後者であると思う。DVはそれまでの100年の歴史の上にその存在を位置させているのだ。
だから、なによりもまずこの作品は視線によるサスペンスであり、ラヴストーリーである。最初のカットから、DVによる映像は撮影者というよりもさらに押し進めて、この映像は誰かの視線であるということを意識させる。実際の目の動きを模した様に、興味の赴くままふらふらと視線を動かす。しかしこれだけでは、凡百の自主映画と何の変わりも無い。少しだけいい機材を使っているだけの話である。キャメラは人ではなく、あくまでもモノである、道具である。ということが示される。ボイスオーバーによる主人公の声と共に展開する主人公の視線だとばかり思われた映像は、物語が動き始めるきっかけである美智が部屋に現れたとき、そのフィクションが崩壊し、新たなDV的リアリティとでも呼ぶべき世界がそこに誕生する。そこには主人公の男がしっかりと映っているのだ。しかし最初は1カットだけ。次にはまた主人公の視線と思しき映像に戻る。しかし、もはやこの「パーソナルな」臭いのする映像が必ずしも、この物語の中の「誰か」の視点と同一視しても良いというものではないということがさらりと宣言された。その後の物語のなかでうごめく視点はときにはユダのものになり、美智のものになり、また主人公のものになったりするが、絶対にそれと同化しないままふらふらと動く。そこにいる誰のものでもない視線の映像になっても、誰かの視線であるという強迫観念が離れない。決して幽霊だとか、映画世界を俯瞰する形而上学的な視線だとかそういう抽象的なレヴェルではなくて、実際に誰かがそこで目線を送っているというリアリティがこの映像にはある。そんなキャメラを彼ら、彼女らはじっと見詰める。これはもう私が見られているのではないかと思うほどにまで至る。そんな映像を見詰める我々に美智は序盤で早々と「自分だけ安全なところにいると思っていない?」と刺すような台詞をいってのける。この場ではまだ映像作家という職業である主人公に向かって向けられた、それはそれで耳を傾けなければならない批判ではあるのだが、この台詞が後々になって抽象性を増し、観ている我々に投げかけられているものだと気付くだろう。
もはや安全地帯からこの映画を観ることは出来ない。

エロス番長1「ユダ」 [DVD]APS-46

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